最愛


 私なりに生きてきた二十四年を振り返ってみようと思う。
 都市と田舎の合いの子のような町で、二十四年前、平均より小さな身体には見合わない元気な産声を上げて、私はこの世界に誕生した。母いわく「ニワトリがタマゴを産むように」それはそれはつるんと出てきてくれたのだという。お医者さんすら驚くほどのスピード出産だったと母が自慢するたび、父は居心地悪そうに顔をそらしてしまう。その日の父は運が悪かった。後輩が起こしたトラブルの処理に追われ、誕生の瞬間には間に合わなかった。だからよく父は言う。「気がついたらいたんだよ」と。拗ねた子どものような口ぶりで、缶ビールを傾けた。
 私の知らない私のことのせいかはともかく、両親はそれ以上の子どもを作らず(本当は兄が一人ほしかったというのは内緒)、スタンダードな一人っ子として溢れんばかりの祖父母からの孫愛を一身に受け、すくすくと育っていった。絵本を読むより、外で走り回るのが好きだった子どもは、いつしか勉強がちょっぴり苦手で、体育がちょっぴり得意な小学生となった。クラスの子が一人、また一人と「オジュケン」を意識していく最中も、私はやっぱりそのまま遊び呆けてばかりいた。そんな私に対して母はやや不満があるようだったが、そういうときに限って強気になる父は「あそこはいいところだから」とここぞとばかりに味方をしてくれた。母は母で「自分が出た中学だからって」苛立ちと呆れを滲ませ、追い打ちをかけることだけは忘れなかった。当の本人、私はというと、一番の仲良しだった女の子が「ナミチュウ」へ行くと知っていたから、何の不満も、不安もなかった。結局、母は最後の最後まで不満そうにしていた。「あなたでも通えるところは他にもあるのよ」と。
 不良がいる。まことしやかに囁かれる噂を、母は本気で信じていた。しかし、私にとってはあの頃の母が信じ、危惧していた噂の真偽なんて、心底どうでもいいことだった。ボタンつきのシャツも、しっかりと折り目のついた硬いスカートも、おねえさんの衣装。おねえさんと同じ服を着ているだけで、むずがゆい喜びに満たされていた。おまけに一番の仲良しだった女の子、京子ちゃんとも同じクラスになれた。ラッキー万々歳。幸せ絶好調。これからの未来は明るいに違いないと信じて疑わなかった。目の前に最高がある状態だったのだ。不良がいようがいまいが、正直、どうでもいい。むしろ中学校の勉強についていけるのか、私の小さな不安はそこに集約されていた。
 そして数ヶ月後。ここから私の人生は、自分で言うのもどうかと思うが大きく、おかしな方向へ転がっていくことになる。


 二十四年を振り返ってみても、やはり今日こそが人生最悪の一日だと思い知らされた。生まれ育った土地どころか、島自体遠く離れた異国の地で、私は一体、何をしているのだろう。
 乾いた破裂音はやむことを知らず、耳がばかになるほど鳴り続けている。身を隠していた石の壁がごりごり削れていくのが背中から伝わった。弾切れより、相手の根気が切れる方に賭けたが、弾の方が早くに切れそうな勢いだ。いずれ、この石壁は削り取られてしまうだろう。読み違えた。そう思うや否や、インカムのボタンを押していた。
「スミマセン、タスケテクダサイ王子様」
 すでに石壁の面積は限られてきている。それに合わせて私も変な格好になっていた。返事、まだかな。限界まで身体を縮めながら、こういうゲームがあったような、なんて場違いなことを考える。余裕があるのか、ないのか。自分でもよくわからない。
――ハァ? なんでオレが? 自分で何とかしろってーの。
 鼓膜に直接叩き込まれた音声は、予想通りの無情さで彩られている。しょせんは駄目元。今は王子がインカムを放り捨てていなかったことに感謝する。
「ですよね!」
 ボタンには触れず、母国語で叫ぶ。知っていた。だから、この人とは組みたくなかったのだ。沢田くん直々の依頼でなければ、頑として断っていた。雷属性の隊員が皆、出払っているから手を貸せ、だなんて。そんな向こう都合の理由で泣く泣く駆り出されている私の身も考えて、慈悲深い行動を取ってくれてもバチは当たらないだろうに。
――王子、忙しーの。わかる? 匣持ちの雑魚ばっかウジャウジャ、ウジャウジャ……あー、ちょーウゼ。メンドクセーからお前が全部片付けろよ。ししっ。
 無茶ぶりとはこのこと。冗談でもげんなりする。幸い、こちら側に匣持ちの輩はいなさそうだが、武器を持っている時点でリスクは変わらない。思えば、最初から無茶ぶりの連続だった。当初の計画では二手に分かれる予定はなかった。気がついたら彼の方が、どこかに消えてしまっていたのである。
 いつでもどこでも奔放なようで羨ましい限りだ。およそ私には計り知れない感性と、持ちえない価値観のようで。皮肉もつきない。王子様と違って凡人はいつでもどこでも、他人の顔色ばかり窺ってしまうのだから。
 ジャケットを開き、どれだけ心許ない備えでここにいるのかを確かめる。こちらは計画通り、サポート用の匣しか持ってきていない。内ポケットから匣を取り出し、中指にはめた指輪で炎を注入する。現れた電気アルマジロは眠たそうな顔で、弾丸を受けている。とりあえず、自分の身を守るのが最優先だ。電気アルマジロに雷の防御壁を張ってもらい、ようやく私はまともな姿勢に戻ることができた。
 このまま、あの気まぐれ王子が来るのを待つしかない。攻撃用の匣もあるにはあるが、持久戦には不向きな代物だ。一発が派手だからこそ、次の一発まで時間がかかる。下手に撃てば、隙ができるどころか、最悪の場合、向こうの敵まで引き寄せる羽目になる。
 袖を少し捲って腕時計を見下ろす。針は零時をとうに過ぎている。ため息が出た。未練がましいが、計画が予定通り進んでいたのなら、すでに私は帰宅している頃で――二日間の休日の始まりに浸っていた頃だった。弾が鳴りやんだかと思ったら、今度は爆音。こんな祝砲、望んでいない。
「今日、私の誕生日なんだよ。こんな誕生日ってある?」
 グレネードを受けても雷の壁はビクともせず、電気アルマジロは大きく口を開けてあくびをしている。王子も、あなたも、自由すぎる。
 膝を抱えて座りなおす。携帯電話の電源は落としたままだから、通知が来ていてもわからない。誰も彼も自由にしているなら、私もそうすべきか。いやいや、と首を振ってパンツのポケットへ伸ばした手を引っ込めた。こういうとき、思う。自分は根っからの日本人なのだと。
 マシンガン、グレネード、次は何が来るのか。私だったらスタングレネードを使う。物理攻撃が効かない以上、目や耳への間接攻撃に頼って硬直を崩す。遮光サングラスをかけ、インカムの集音機能をオフにする。「丸まって」電気アルマジロに声をかけようとした矢先、緊張は靴底から全身へ巡っていった。
 片側のインカムを乱暴に外す。もう片方の手はすでにジャケットの内側へ滑り込んでいた。背筋が氷る。私は未だ脇の下にあるこの硬さにも、重さにも慣れられずにいる。
「大目に見てやれ」
 場違いなその声に肩を縮めた。握った手を開くと、再び脇の下へ重みが戻る。これはまずい。非常に、まずい。気まぐれ王子より厄介な人が来てしまった。
 横を通り過ぎていく足音を片耳で聞きながら脱力する。離れていても微かに届くどよめきから、何が起きているのかは充分に察せられた。敵ながら同情する。この人が来た時点で未来は確定した。
 電気アルマジロを匣へ戻し、石壁から顔を覗かせた。インカムの片割れをポケットに入れ、遮光サングラスを持ち上げる。堂々とした後ろ姿は、淡々と場を制圧していく。声をかける暇もない。――状況が変わったことを王子にも伝えようか迷ったが、やめた。今でなくてもいい。あの王子も、少しは凡人のように汗水を垂らして働くべきだ。
「図体ばかりでかくなっても、アイツはダメツナのまんまだな。ろくに女の誕生日も覚えてねーとは」
 ピストルにマガジンを装填し、一発、二発と放っていく。
「まったく、とんでもねー野暮天だ」
 呆れたように漏らす。決して大きな声で言ったわけではないのに、私のところまではっきりと聞こえてくる。それだけ、この場が静かになったということ。一人だけレベルが違う。何とも鮮やかな手際だった。
「リボーンちゃん、どうしてここに?」
 踵を返して歩いてくる子へ問う。きちんと身体に合うように仕立てられたスーツの埃を払い、「とある女からの頼まれごとでな」とあくびを一つ。醸し出される貫禄と反し、その声にも仕草にもどこか舌っ足らずな甘さがある。
「ダメな教え子の尻拭いはそのついでだぞ」
 カメレオンをのせたボルサリーノのつばを指で押し上げる。立ち上がった私よりも低いところにある顔は、悠々とした笑みを湛えている。
「しかし、お前も災難だったな」
 胸ポケットからするりと何かを取り出す。
「ここに来たのが獄寺のヤツなら、最高にドラマチックだったのにな」
 子どもながらに細長い指で挟み込んだそれをちらつかせた後、おもむろに私へ差し出した。
「ハッピーバースデー、トゥーユー」
 日頃、流暢に話す英語をわざとらしく崩して言った。
 災難とは、言いえて妙だと思った。沢田くんの野暮に、王子の勝手。挙句の果てには、これだ。まさか二十四才の誕生日を、面と向かって最初に祝ってくれるのがリボーンちゃんになるなんて、想像もしていなかった。ひどいことをしてくれる。
「ありがとう、リボーンちゃん」
 差し出された封筒を受け取り、力の入らない声で礼を言う。
「てっきり文句の一つでも来るのかと思ったが」
「助けてもらってそれはないでしょう。……いいの。どうせ隼人くんは素直に祝ってなんかくれないから」
 封筒の表側には何もなし。厚みもない。左右に傾けて四方の確認を済ませてから、指を使って裏返す。
「……これ、どうしたの?」
 隅から隅までぴったりと糊づけされた封筒の裏側には、奇妙な一文が記されていた。
「言ったじゃねーか」
 背伸びをしたリボーンちゃんが、私の顔へ手を伸ばす。
「とある女からの頼まれごとだってな」
 抜く手も見せず、片耳のインカムを抜き取った。取り戻そうと動いたときにはもう、彼は数歩先にいた。インカムを耳にはつけず、口元へ寄せて「おい、ベルフェゴール」とこちらに背を向けて話し始めてしまう。「ゲェ」品があるとはとても言えない、王子の小さな呻きを最後に、二人の声は遠くなっていった。
 ここでは封を開けられない。封筒の中身を出すのは、帰ってからでないと無理だろう。試しに捲れそうなところを爪の先で探してはみたものの、引っかけるところさえ見つからなかった。
「九年後の」
 英語でも、イタリア語でもない。
「あなたへ」
 この文字は母国――日本語で綴られている。文そのものも奇妙だが、何よりも奇妙なのはこの筆跡だ。
 穴が空くほど見つめても、一向に思い当たる節がない。
 けれどこの筆跡は紛れもなく、私自身のものだったのである。


 無事に王子の手伝いを終え、アパートへ帰ってくる。夜も更けて久しい時分となっていた。これでもまだ、さっくりと帰ってこられた方だと思うと末恐ろしくなる。
 すっかり機嫌を損ねた王子は、自隊の仕事だったにも関わらず、「もともとはそっちが投げてきたヤツだろ」と報告どころか、事後処理の手配までこちらに丸投げして現地で消えた。それでもなんとかこの時間に帰ってこられたのは、リボーンちゃんと沢田くんのおかげだ。「もう休日に入ってんだろ」と丸投げされたものをリボーンちゃんは丸ごと引き受けてくれた。目の下にくまを作った沢田くんは、私たちの帰りをちゃんと待っていてくれた。――当然と言えば、当然なのだが。今にも土下座しそうな勢いで「ごめん! ほんとにごめんな!」と両手を顔の前で合わせ、謝り倒す沢田くんを見ていたら、何も言えなくなってしまった。
 とにかく、色々あったものの無事に帰宅できたのだから。もう何も言うまい。
 蝶番がなるべく悲鳴を上げないよう、慎重にアパートの玄関を進む。時間も時間だから管理人の姿はない。ネックレスに通した大小二つの鍵を、シャツの中から引っ張り出す。カウンター前の壁に並んだポストの一つへ、小さい方の鍵を差し込んだ。空っぽなのを確認してから、階段を上る。
 この国で過ごすようになって最初に学んだのは、郵便への信用は半々にしておいた方がいい、ということだった。普通郵便はまず、期日通りには届かない。さらにお金を上乗せしておかないと、送った記憶の方が先に薄れていく。何も知らずに初めてここから実家へ送った手紙なんて、実家に到着するまで一月半もかかったのだ。それ以来、郵便は極力控え、連絡のやり取りはほとんど電子頼みになった。
 電源を入れた携帯電話を片手に、階段を上がっていく。日本にいる友達たちからのお祝いメッセージは、すでに昨日のうちに返信済み。日付が変わってすぐに届いたものは、ビアンキさんとクロームちゃんからのものだけだった。二人ともシンプルな文面でまとめられている。
 お誕生日おめでとう。ローマ字の日本語。
 ありがとう。私も同じように、クロームちゃんへ返す。
 ビアンキさんへの返信は、あとにする。祝福の言葉の次に続く文面の意図がわからなかったからだ。何かあったら言いなさい。顔を合わせたときに必ず言われることだから、特に深い意味はないのだろうが。
 三階まで来ると、つい先ほど、面と向かって言われたばかりだというのに、沢田くんとリボーンちゃんからのお祝いも送られてきた。
 良い夜を。リボーンちゃんらしい短く、スマートな締めくくり。
 まだ謝り足りなかったのか「sakkihagomem」という誤字入りの文も、沢田くんらしかった。
 これでおしまい。今日が何の日か、私の次にわかっている人からの連絡はなし。期待していなかったわけではないが、元より、こうなることは心得ていた。
 頭から追い出すように携帯電話の画面を暗転させ、ポケットへ突っ込む。階段から一番遠い、角の部屋へ向かう。もう一方の大きな鍵でドアを開けた。
 ただいま。内側からドアの鍵をかけ、胸の内で呟く。
 今日は昼過ぎに部屋を出たから、ちょうど時計の針は一周巡り、二周目に入ったところか。長い一日だったな。やっとくつろげる。身体はほとほと疲れているはずなのに、眠さはない。玄関脇のスタンドライトをつけ、ジャケットとパンツのポケットの中身をダイニングテーブルへ広げていく。
 ジャケットを脱ぎ、椅子の背もたれへかけた。まだ、重たい。リュックを下ろすように、肩を締めつけていたベルトを外す。これで本当に一息つける。凝り固まった筋肉をほぐしながらキッチンへ。冷蔵庫からは飲みかけのミネラルウォーターの瓶、調理道具の入った引き出しからはキッチンばさみ、それぞれを両手にダイニングテーブルのもとまで戻る。
 眠くはないが、座ってしまったら動けなくなる。椅子を眺めるだけに留め、ミネラルウォーターを一口。瓶を置き、封筒を取る。中身が下がるように数度揺らしてから、キッチンばさみで封を切り開いていく。
 九年後のあなたへ。つまり、九年前から今の私へ宛てられた手紙。九、という数字だけがどうにも引っかかる。もしこの数字が九ではなく、十だったとしたら――
 隅までは切り落とさず、ぎりぎりで刃を止める。切り口を開き、中身を取り出す。二つ折りの紙が一枚、他には何も入っていなかった。キッチンばさみと封筒を置き、両手で紙を広げた。 
 
  ◎

 何も知らなかった頃には戻れない。あの世界で過ごした日々は、肌に浮かぶ影のように、べったりとまとわりついている。そうやって影が脅かしてくるたびに抗う。呪うものか、と。抗った矢先、何かを間違えてしまったような不安がよぎろうと、私は何度だって「これでよかったのだ」と抗い続けるのだ。
 六限目の授業も残すところあと僅か。ともなれば、緊張の糸なんてあってないようなものになる。机の下で携帯電話のボタンを押しまくる人もいれば、ふらふらと頭を揺らす人もいる。小さく折り畳んだ紙を回し合う人たちの近くで、一心不乱に黒板と机を交互に見渡してシャーペンを動かす人たちだっている。前にもこんな風景を見た。いつだっけ。私の疑問に記憶が答える。小六のときだよ。そうだ。揃っているようで揃っていない。バラバラなようでバラバラではない。物や体格が違っているだけで、鐘が鳴るまでの過ごし方は同じ。それなのに、ガラス一枚隔てられているかのように景色が遠い。
 シャーペンをボールペンに持ち替える。ノートをずらした手で壁を作る。誰にも見られたくなかった。ばかみたいだ。こんなにも書きたいことが山ほどあるのに、ペン先すらまともにつけられずにいる。自分の中にある色々な想いが集まって、ぶつかり合って、まとまりなく叫び合う。何が一番だったのかわからなくなる。
 それなら山ほど紙を使ってすべてを書けばいい。そう思ったら、それだけは何が何でもしてはいけないことだとわかった。あまりにも子どもっぽい。スマートではない。冷静ではない。そんなみっともない真似だけはしたくなかった。絶対に、しない。
 鐘が鳴り、はっとした。次回の話を先生が終えた途端、一斉にクラスメイトたちが音を立てて動き出す。引っ張り出した紙をノートへ挟み、教科書と共に閉じる。ボールペンの端を押したら芯が飛び出した。笑える。出てきたばかりの芯を引っ込め、筆箱に突っ込んだ。本当に笑えてくる。私は今日も、白紙の紙を睨みつけただけで終わってしまった。
 放課後を迎え、クラスメイトたちが散り散りに移動する。教室を後にする人や、友達のところへ向かう人。もちろん、立ち上がろうとすらしない人もいる。ここで過ごす最後の時間を思い思いに消費していく中で、私だけが鞄を抱えて椅子に座ったまま、どこにも行けずにいる。
 ガン、と机を蹴られ、顔を上げる。
「帰るぞ」
 不機嫌です。そう書かれている顔に見下ろされ、「うん」と頷いた。眉間に皺を寄せて唇を曲げるぐらいなら――そこまで答えを出しておいて、口を閉ざす私に何か言う資格なんてない。そんな私をチェーンに通され、彼の胸元であざ笑うようにそれが揺れる。否が応でも目で追いかけてしまうものから逃げるように、抱えた鞄を肩にかけて腰を持ち上げた。
 二人で廊下を歩きながら、お互いに口を開く。
「今日、塾の日か?」
「そうだよ。今日は数学の日」
「苦手なくせによくやるぜ」
「苦手だから人より頑張らないとダメなの。こないだの模試じゃ、まだ第一志望に偏差値届いてなかったしね」
「勉強ぐらいオレが教えてやんのに。……あ! 十代目、お疲れ様です!」
 しっかりと立ち止まって、勢いよく頭を下げる。廊下にも、教室の入り口にも人がいたのに、彼の目は沢田くんの姿を見逃さなかった。山本くんと喋っていた沢田くんが、こちらに手を振って口を動かす。あいにくと私には聞き取れなかったが、沢田くんたちに見えるよう、手を振り返しておく。隣にいた彼は「ありがとうございます!」と声高に叫んでいた。
 一年、二年と続いたクラスも、三年になってついにバラけてしまった。春のクラス発表のときは、それはもう大変だった。京子ちゃんや花ちゃんと別のクラスになって肩を落としていたら、いきなり掲示板が爆破されたのだ。犯人は隣の、彼。沢田くんとクラスが別れたことにも、沢田くんと山本くんが同じクラスだったことにも納得できず、本気で腹を立てていた。そこに喧噪を聞きつけた雲雀さんまで乱入して、あとはすっかり見慣れた一騒ぎ。結局、どれだけ生徒たちが暴れようが、下された決定が覆えることはなかった。先生たちもたくましくなったものだと舌を巻いた。
「お前、十代目相手に気安すぎるだろ」
「うーん。まあ、沢田くんは沢田くんだからなあ。あ、でも身長はちょっと伸びたよね」
「なんで十代目が5センチも伸びたことを、お前が知ってんだ」
 それは今、初めて知った。
「合同体育のときに種目被ってたから」
「あのときか。お前ずっと十代目と話してただろ」
「そりゃあ話すよ、友達だもん」
「なっ。なんつー恐れ多いことを……せめてもっと恐縮して言え!」
 まるで私が大失態を起こしたみたいに言われる。頭を抱え、「スミマセン、十代目」「オレがもっと目を光らせておいたら」ぶつぶつ、ぶつぶつ口早に呟いていく。じっとりと彼を見つめていたら、「なんだよ」と睨まれる。
「自分がやらかしたわけでもないのに」
「……お前のやらかしは、オレのやらかしにも繋がんだよ」
 付き合ってんだから、としどろもどろに告げ、そっぽを向いてしまう。髪の隙間から見えた耳まで真っ赤に染まっていたのを、私が見逃すはずもなかった。


 彼、獄寺隼人と付き合い始めたのは、中二の終わり頃。私が生まれて初めて、死というものを強く実感した夜から数えて、三日後のことだった。お互いに好きだと口にしたわけでも、付き合おうと言い合ったわけでもない。ただ、一つだけ言える。私たちはその日の夜、お互いがお互いの傍にいることを心に決め合ったのだ。
 何がどうしてそうなったのか。今でも詳しい事情は知らない。それでもあの日、私は何者かに狙われ、襲われた。沢田くんたちが来てくれなかったと思うと――思い出すだけでもぞっとする。詳しい事情は知らなくても、皆がどれだけ話を濁そうとも、何となくの察しはついていた。
 あの世界、十年後の世界で出せるようになってしまった「炎」に関わることだったのだろう。出そうと思って、出したつもりはない。勝手に「炎」が出た。つけてみなさい。今よりも大人っぽいビアンキさんに指輪をいくつか渡され、指に入れては外していった。訳もわからずに従っていたら、そのうちの一つが燃えた。バチっと静電気をまとったみたいに「炎」が指輪を燃やしているのに、不思議と熱くはなかった。困惑する私を見守っていたビアンキさんの、ひどく厳しい表情に、これは起きてはいけない事態だったのだと悟った。「出ちまったもんは仕方ねー」リボーンちゃんの小さな手によって指輪を引き抜かれ、渡された。「持っとけ。だがはめんなよ」と。「それをはめんのは、自分がやべーと思ったときだけだぞ」ぷくぷくとした小指を差し出された。何かと彼らが口にする「マフィアごっこ」を京子ちゃんたちのように信じていたわけではない。「ごっこ」が剥がれ去れることの意味を、突きつけられただけ。彼らの、もう一つの日常を思い知らされただけだった。
 両手で指輪を握り締める。リボーンちゃんの言う「自分がやべーと思ったとき」が本当に訪れてしまった。ごめんなさい。他に言葉が見つからなかった。「違う。違うんだ」何度も頭を横に振って、沢田くんは言う。君は何も悪くなんてないんだ。これはオレたちの、と口を閉じた。沢田くんが黙ると、山本くんや了平くんは何かを埋めるように謝罪の言葉を口にした。帽子のつばを引き下げたリボーンちゃんまでもが「悪かった」短く漏らしていた。
「派手にずる剥けてるが、大丈夫。痕は残らん。足首の方も軽い捻挫だ。しばらくは要安静だからな」
 逃げる際、擦りむいた膝と捻った足の手当をしてくれたシャマル先生が、頭を軽く撫でて言った。「ハヤ……」呼びかけた名前を飲み込み、「とっとと帰りやがれガキども」と沢田くんたちを引き連れて出て行く。保健室に残されたのは私と、獄寺くんの二人だけとなった。
 沈黙。私は指輪を握り締めたまま、獄寺くんは俯いて立ち尽くしたまま、時計の針が動く音だけが響き渡る。気まずい雰囲気に耐えかね、「あの」と続く言葉も用意してないのに口から吐き出していた。
「シャマル、先生も、ああ言ってた、しさ」
 ばかみたいに明るい声を出そうとして失敗した。落ち着いてくればくるほど、身体中から血の気が引いていく。震える。震えを抑えようと両手に力を込める。足より、指輪が食い込む手の平の方が痛い。怖かった。泣きそうだった。でも、泣きたくない。泣いてしまったらきっと、彼の方が――
「わかってたのに」
 獄寺くんがぼそりと呟く。
「お前が出せるって知ってたのに」
 私の手から初めて、ぷすりと「炎」が出たときのことを言っているのだろうと思った。傍には獄寺くんがいた。獄寺くんだけが、知っていた。血相を変えてリボーンちゃんたちのところへ私を引っ張っていったのは、獄寺くんだったのだから。
「生きた心地がしなかった」
 震えるその声に叩かれたように彼を見た。首にぶら下げたチェーン、そこに通された指輪を骨が浮き出るほど強く、彼は握り締めていた。
「クソ、何やってんだオレは」
 丸椅子を蹴り飛ばす。びくりと肩が震えた。怒鳴り声も、壁まで吹き飛んだ丸椅子が鳴らす物音も、静かな空間には大きすぎる音だった。
 ふらふらとその場にしゃがみ込み、小さく身体を丸める。片手で髪を握って押し黙る。「要安静」と言われたばかりなのに、私は彼のもとまで駆け寄っていた。奥歯を噛む。痛みより、自分の足なのに言うことをきかない苛立ちの方が強かった。声よりも震えた吐息を耳にした瞬間、居ても立ってもいられなくなってしまったのだ。
 丸まった彼の身体に腕を回す。何が彼をそこまで追い詰めているのかはわからない。思い当たるものがあるとすれば、彼らは私たちが傷つけられるのはおろか、巻き込まれるのすら恐れている、ということ。本来、決して目にするはずのなかった十年後の世界で、「マフィアごっこ」が消し飛ぶような戦いが起こる最中、何度も、何度も苦しむ彼らの姿を見てきた。
 だけど私が一番つらかったのは、見ていられないぐらい苦しくなったのは、あなたが傷ついたり、苦しんだりする姿だったんだよ。
 手放した指輪が転がり、机の脚にぶつかる。私の持っているものすべてを捧げてもいい。今、彼の涙を止められるならそれでいいのに、彼にかける言葉一つ持っていない自分が情けなくて涙がこぼれた。
 なんて無力なのだろう。もっと、しっかりと生きていたら、私は彼に、大好きなこの人に何かしてあげられたのかな。
「痛いよ」
 私はそんなに力強く、彼を抱き締めてあげられない。同じぐらい強く、抱き締められたらよかったのに。獄寺くんの頭に顔を寄せ、少しでも想いが届けばいいと祈った。傍にいることを許してほしいと願った。私がどれほど大切で大好きなのか、独りですべてを抱え込もうとして、抱え込めなくて、自分で自分を苦しめようとするこの人に少しでも伝わってほしかった。
 目も、口も閉じる。触れ合うところから伝わるように獄寺くんのシャツを握って、さらに腕の力を強めた。背中に回る腕の力が、息苦しくなるほど強くなる。応えるように力の入ったその腕に、瞼の隅から涙が溢れてくるのを感じた。
 獄寺くんは、あの夜を境に変わっていった。クラスが別れてしまっただけで、あんなに怒っていた人はもういない。それまで沢田くんたちと過ごしていた時間を、そっくりそのまま私に充てるようになっていった。だからといって四六時中、一緒にいるわけでもなく、私がクラスの友達や、京子ちゃんたちと過ごすときには、元の獄寺くんに戻っていた。
 付き合うってなんだろう。――当事者になった途端、わからなくなった。私は「好きだ」と想いを伝え、彼は「付き合っている」と気恥ずかしそうに事実を口にする。友達とは違う。その違いだけしか、わからなかった。
 傍にいればいるほど痛感させられる。彼の彼らしくない姿に胸を締めつけられた。そうして彼を縛りつけているのは私だと、そう思えていられたから、心の裏側で満たされる何かもあった。彼によって縁取られた私の輪郭は、必ずしも「良いもの」ではなかったのかもしれない。それでもよかった。そう思いたかっただけだと知った今でも、私はきっかけがなければ、彼の傍にいることすら許されてはいなかったのだろう。


 こんなにも神経を注いで文字を書くのは、最初で最後だ。一文字ずつ、下手したら一筆ずつにまで気を払った。何度、書き直したか。覚えていない。ほとんど真っ白だった紙も封筒も、何度もくしゃくしゃに丸めて捨てた。
「本当にいいのか?」
 何に対しての確認だったのか、リボーンちゃんは私の手の平よりも一回りも、二回りも小さな両手で封筒を受け取り、俯いた。
 書き上げるのにかかった時間も覚えていなかったけれど、誰に託すか悩んだ時間は一晩で済んだことは覚えている。
「うん。お願いします」
 リボーンちゃんに頭を下げた。屈み込んでも目線は合わない。
「わかったぞ。これは必ず、約束の日に届ける」
 折り曲がらないよう、スーツの内側へ入れる。「だが、もう一つの方は気が進まねーな」とつぶらな瞳をこちらへ向けた。
「誰も望んじゃいねーぞ」
「私が」胸に手をあて、「望んでる」と続けた。
「……お前はガキだからわかってねーんだろうが、この先いくらでも、どうとでもなるんだぞ。これ以外にだって、いくらでも」
 片手を差し出す。あの夜以降、ずっと机の引き出しにしまっていた指輪は今、中指の付け根まではめ込まれている。不規則にパチ、パチと指輪は緑色の光を放つ。「それでも」片手を握ると光は消え、何の変哲もない指輪へと戻った。
「九年後にいた私はそこにいたんでしょう?」
 私の知らない、九年後の私が何を思って身を投じていたのか。知る由もない。私が知っているのは、今でも彼の一番近くにいるのが「彼女」であったということだけだ。
「今のお前の未来じゃねー」
「知ってる」
「……男は何も、獄寺だけじゃねーってことも」
 知ってる。リボーンちゃんが優しいことも、ちゃんとわかっている。「ダメツナでも手一杯だってのにな」そう言って私の手を撫でた。
「条件が二、三ある。まず、高校には通え。せっかく受かったんだ。真面目に通え。それから、言い方はお前に任せるが、卒業までにはちゃんと家族に話を通しとけ」
 最後に、とリボーンちゃんは腕を組む。
「オレはスパルタなんだ。泣き言一つ言ってみろ。その時点でオレは指導を降りるからな。そのときはスッパリ諦めろ」
 この三つを守れるか。短い指を三本立て、リボーンちゃんは問う。すぐに頷けるような簡単な条件とは言えない。自分なりに飲み込むまで時間がかかった。私が答えを出すまで、リボーンちゃんは待っていてくれる。離れたところにいる、沢田くんたちの声に耳を澄ます。ランボちゃんを怒鳴り散らす彼の声が聞こえた。頭の片隅で、獄寺くんの胸元で揺れている指輪が浮かぶ。
「……うん。それでお願いします」
 どうしたってこの時間は終わる。卒業したら、皆とは別の高校に進む。どんなに獄寺くんが無理をしたところで、一緒に過ごしたこれまでのようにはいかない。私もそれを、望んではいない。
「一発、殴っとくか? サービスしとくぞ」
 ニヤリとリボーンちゃんは笑う。唐突な提案にぎょっとしたのも束の間、意図を察して頭を振る。
「殴っても人の気持ちって、変えられないし、変わるようなものでもないでしょ」
「困ったモンだ」
 私の肩に飛び乗り、
「アイツらの周りには、アイツらにはもったいねー女ばっかり集まっちまう」
 ぷくぷくとした手で頬を軽く叩かれる。
「ありがとう、リボーンちゃん」
 中学生でいられるのも残り僅か。十五才になった私の冬は、指先がかじかむ寒さと共にあった。春になれば、高校生になる。かつておねえさんのものだったシャツも、スカートもすっかり柔らかくなってしまった。
「ところでお前、獄寺のどこに惚れたんだ?」
 どこに。改めて尋ねられると答えにつまる。理想が高くて自分が嫌いなところに、あれだけ感情的に動いてしまうのに天邪鬼なところ。不器用なのに優しくて、大事なもののためなら自分すら投げ打つ危ういところも――
「全部」
 笑顔一つ、まともにお目にかかれない。彼の笑顔なんてものは、沢田くんのためにあるようなものだ。私の記憶にあるのは、しかめっ面か真っ赤になった顔ばかり。そして記憶を辿った先には、真剣な眼差しや、すぐに隠されてしまう温かい眼差しなのである。
「全部か」
 そりゃあ、大変だな。リボーンちゃんは声を躍らせ、いつもの何を考えているのかわからない顔になった。その近すぎる横顔を眺め、「大変なんだよ」と空を仰ぐ。おかげで私の中学三年間も、今後も、めちゃくちゃだ。
 沢田くんたちに出会ったからではない。転入早々、校舎裏で文字通りの爆音をとどろかせ、動揺すらも感じさせずに煙の中に佇んでいた。そんな彼を、物陰に隠れながら息を殺し「やばい、やばい」と震えて、でも、一時も目を逸らせずに見つめていた。
 時期外れの転入生がもたらした。獄寺隼人が目の前に現れなければ、今の私はなかったのだろう。私の心ごと、人生も吹っ飛ばした。景気よく、鮮烈に。目まぐるしく、すべてを変えていった。
 そんな彼に想われる「彼女」が羨ましい。
 今の私はどうしたって、獄寺くんに指輪を預けた「彼女」にはなれない。
 だから私は「あなた」になりたいのだ。

  ◎

 ダイニングテーブルに置かれた二つ折りの紙を見下ろす。九年ものあいだ、閉じ込められていた。それはあえて広げようとしない限り、折り畳まれてしかるべきものだった。
 匣に、遮光サングラス、ショルダーホルスターに突っ込まれたピストル。大人しく眠る携帯電話、口の開いたミネラルウォーターの瓶。そして、封を切られた過去からの手紙。私の歩いてきた二十四年間が、テーブルの上に勢揃いしている。いや、まだだ。これもある。右手の薬指にはめていた指輪を抜き取り、折り畳まれた紙の上にのせた。これですべて。そのはずだ。
 忘れていたわけではない、と思う。当時の記憶は今でも私の中にある。中学の頃のことも、高校の頃のことも覚えている。過去が積み重なって今がある、とはいえ、「彼女」からの手紙で思い出した、というのも事実だ。
 私が変わっていったように、目にする景色も変わっていった。リボーンちゃんとの約束を守り、駆け抜けた三年間。ビアンキさんも巻き込んで必死に詰め込んだものがあるからこそ、私はこの国にいる。
 壁を一枚挟んだ先で物音がした。咄嗟に、二つ折りの紙を封筒へ入れる。本当はその封筒も、パンツのポケットへ入れてしまいたかった。
「何やってんだ」
 扉が開く方が早かった。
「それは」
 私の台詞だ。
 ネクタイこそ締めてはいなかったものの、肘まで捲ったシャツも、折り目のついたスラックスも、部屋着にしてはあまりにも堅苦しい。いつでも外に出られる。そんな格好で、彼はリビングから私を覗いていた。
「起きてたの。寝てるのかと思った」
「十代目から連絡あったからな。起きてたよ」
 片手に持った携帯電話をちらつかせ、彼はさらに扉を開け放つ。まるで招かれているような心地にさせられる。一応、ここは私の家なのに、これではどちらが主かわからない。
「それに。お前より歴がなげぇんだよ」
 彼の言うこともごもっともだ。人の気配に対して敏感なのはお互い様で、もっと言えば私よりもよほど彼の方が「そういう場所」に長く、身を置いている先輩の一人だった。
 様子を窺いながら、手紙をしまうタイミングを見計らう。彼はもともと気の長い方ではない。すぐに痺れを切らしてしまうに違いない。もっとも、昔みたいなあからさまな態度は鳴りを潜めていたのだけれど。
 怪訝そうに彼は首を傾ける。胸元には何もない。あれだけ「彼女」がやっかんでいた指輪は、いつしか、彼の胸元から姿を消していた。
「ヴァリアーの手伝いだったんだろ? キッチリやってきたんだろな」
「王子にもう少し協調性があったら、もっと早く帰って来れたよ」
 愛想を尽かしきったように彼がため息を吐く。「相変わらずだな、アイツ」ぼそりと漏らす。シャツの胸ポケットから煙草の箱を出し、ピタリと動きを止めた。
「……朝までそこにいる気か?」
「まさか」
 なるべく彼には悟られないよう、封筒をパンツのポケットへしまう。ダイニングからリビングへ、彼のもとへと向かう。すでに気がついているだろうに、彼は何も言わず、私がリビングへ入るのを見届けてから、ゆっくりと扉を閉めた。
 今日、誕生日なんだ。そう言いかけて、やめた。
「今日、二十四才になったよ」
 誕生日だから、何だというのか。無理にでも祝われたいような気がして、言葉にはできなかった。
「知ってる」
 てっきりそのまま寝室へ向かうのかと思いきや、リビングからバルコニーへ続く戸に手をかけた。ちらりとリビングのテーブルを見やる。そこには吸い殻が山のように溜まった灰皿と、彼が好んで飲むワインボトルに、空っぽのワイングラスが静かに存在を主張していた。出会った頃から煙草を口にくわえていたのだ。今更、何も気にしていない。
「ここまであっという間だった」
 この国へ訪れたのが、六年前。それ以来、私の家はここ。たまには顔を見せなさい。手垢のついた文句を両親が口にするぐらい、日本には帰っていない。二人の中では今も、沢田くんのご実家繋がりの商社で働いていることになっている。あの頃、不格好にも「マフィアごっこ」と口を揃えていた彼らの気持ちがわかるようになった。今の私は彼らと同じ場所で、生きているからだ。
 先にバルコニーへ出た彼の隣に並ぶ。プランターも置いていないのに、ここは大人二人で満杯になる。柵へ寄りかかり、寝静まる街並みを臨む。
「空港で隼人くんが待っていてくれたの、すごい嬉しかったし、頼もしかったんだよ」
 ビアンキさんに見送られ、独りで向かうつもりだった。三年かけて、リボーンちゃんたちから生きるための力も知恵も、知識だってがっつりと叩き込まれた。不安はなかった。丸々と太ったボストンバッグを足下に置いた彼が、私の前に現れるまでは。
 不安なんてない。そう思い込もうとしていただけだと、気がつかされた。
 不機嫌そうに眉を寄せ、唇を引き結ぶ。無言でボストンバッグを背負うように肩へかけた彼は、私のトランクを引いてチェックインカウンターへ歩いて行った。
 あのときより大人びた横顔で、あのときと同じ顔をしている。彼の足下にあるものも気になってしまう。ボストンバックの代わりに置かれていたのは、彼の持ち物にしては小さく、かわいげのあるものだったからだ。「初めて聞いた」「言ってなかったなって」「そうかよ」煙草に火をつけ、彼は唇をすぼめて細い煙を吐き出した。
「機嫌悪いね」
「……あいにくと高校のときのことなんか、オレは少しも思い出したくねぇんだよ」
「どうして?」
「あの頃のお前も、高校も、何もかも、気に入らねーことばっかりだったからな」
「そっか」と苦笑する。出会った頃に戻ってしまったかのように、あの頃の彼は尖り、荒れていた。せっかく沢田くんたちと同じ高校になったのに、彼はちっとも笑顔を見せなくなっていた。「懐かしいね」ぼんやりと呟く。
「隼人くんが怖かったから、離れてたわけじゃないんだよ」
「……知ってる」
 ごそごそとスラックスのポケットから携帯灰皿を取り出し、彼は数度口をつけただけの長い煙草を折り曲げ、火を消してしまった。まだ充分、吸えたはずなのに。
「そういえばあの指輪、どうしたの?」
 胸元を指さし、チェーンを摸して弧を描く。
「ずっとつけてたのに」
 見慣れない制服を着た彼の姿を思い出す。すでに指輪はなかった。
「お前が嫌がってたから捨てた」
「もっと嘘っぽいこと言えないの?」
 ささやかな失笑に、彼は「悪かったな」と口にする。
「ずっと、オレなりに考えてたんだ。なんで十年後のお前が十年前のオレに預けたのか。託したって感じでもなかったし、かといって十年後のオレのものだったわけでもねぇ。……今も昔もあの指輪は、オレのどの指にも合わなかったからな」
 何も持たない広げた片手を掲げ、
「それでもあのとき、オレに指輪を預けたときの、十年後のお前の顔がこびりついて、離れなかった」
 そう言って、彼はこちらへ顔を向ける。器用に片側の口端だけを持ち上げた彼の微笑みには余裕がある。
「それ、浮気じゃない?」
「もう時効だろ」
 深く息を吐き、私の名前を呼ぶ。
「あの指輪をつけなくなったのは、意味がわかったからだ」
「意味? 理由じゃなくて?」
「理由は今でもわからねぇが」
 広げたその手で、私の左手を取る。
「これはやっぱり、お前のものだったんだよ」
 支えられた左手の薬指に指輪がはめられる。見間違えるはずがない。「彼女」はこれを、本当に憎らしく思っていたのだ。つまりは、私もそう。かつて彼の胸元で揺れていた指輪は今、合わせたわけでもないのに、ぴったりと私の薬指に収まる。
「今のオレはあのときみたいな顔、お前にさせるつもりはねぇからな」
 だから、これはここにあるべきだと彼は言う。瞳を細め、私の左手を痛いぐらい強く握る。
「誕生日、おめでとう」
 唇を丸め、必死にこらえる。視界が滲んでいく。でも、瞼を閉じてしまいたくはない。昔に比べ、今の彼には余裕がある。私もそう。そうでありたいのに、勝手に熱くなっていく目尻から想いが溢れ出してしまう。
「耳、赤いよ」
 ふてぶてしく笑いながら、やっとのことで絞り出す。空が白むまで、まだ少しの時間がある。顔色までわかりはしないが、きっと今の彼の耳はほんのりと赤く染まっているのだろうと思った。
 いつもそうだ。面と向かって、彼は想いを口にしようとしない。「好き」も「愛してる」も私が伝えるばかりで、いつまでも彼は不器用なまま、全身で私を愛してくる。
 隙を突いて、彼の足下にあった花束を取り上げる。「あっ」と声を上げたが、知ったことではない。彼に似合うようで似合わないそれを差し出す頃にはきっと、空も白んでしまうだろう。
 一、二と数えていく。この国で偶数の切り花は、好まれない。九本のチューリップがまとめられただけの、小さな花束を受け取る。今の私にはそれができる。
「これも私の、でしょ」
 そっぽを向いて髪をかく。やがて口元を片手で隠し、「あー……とりあえず、寝るか?」どうしようもないことを彼は言う。ぶち壊しもいいところなのに、私は涙も笑い声も堪えきれなかった。
 良い夜を。リボーンちゃんの言う通りだったよ。
 何かあったら言いなさい。ビアンキさん、時間も考えずに伝えたいことができました。
 手紙の送り主へ告げる。
 九年経っても、相変わらずだよ。子どもみたいでしょう。口にすると長いけれど、九年なんてあっという間。変わったと思えるのは、振り返ったときぐらいで、大それたものでもない。だからね――
 少女のように勢いよく抱きついた私を、彼はしっかりと抱き止めてくれた。
 だから私は、これからも獄寺隼人の傍にいる。


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「恋愛スピリッツ」様提出