Come back to
"The World"


※ほぼ捏造しかない
※Last Recodeプレイ済み推奨


 腑に落ちた、とでも言えばいいのだろうか。あるいは、夢から覚めたようだとも言える。この場の雰囲気に呑まれているのかもしれない。ここはよく似ている。飽きるほど目にした黄昏の色。最後に彼と話した場所と同じく、暖かな色合いに染まり、包まれている。
 祭壇はあっても、祀られるものがない。仰々しい内装のためか、不自然な空白は歪さによって目を引かれてしまう。
 私の記憶ではもっと、ここは冷たい場所だった。胃の底を冷やされるような空気がここにはあった。本来、感じるはずのない感覚は、十年近く経った今でもはっきりと残っている。
「ずっと」
 昔、ここに何があったのかを私は知っている。
「思い返してみれば、ずっと」
 ここには、鎖に繋がれた少女の像があったのだ。かつての彼女は祀られるのではなく、この世界に縛られていた。
「私は同じ場所をぐるぐる回ってたような気がする」
 何物にも遮られることのなくなった光に、目を眩まされそうになる。手近な長椅子の背もたれへ寄りかかり、消えない傷跡をつけられ、置き去りにされた祭壇へ背を向けた。左右それぞれの壁際に寄せられ、整列した長椅子は一つとして座れるような代物ではなかった。そういう仕様だからだ。
「やっぱりここに戻ってくるんだ」
 時間も、場所も、何もかもを越えて引き寄せられる。
「このバージョンになってから、あなたは数えるほどしかログインしてませんよね。それなのに、寂しいんですか?」
 性の差に囚われていない声だと思った。
「おちびさん。何でもね、終わりを迎えるときって、大なり小なり人はこうなるものなんだよ」
 例えば足繁く通った店だろうと、一度訪れただけの店だろうと、閉店するとなればやはり、寂しさを覚えてしまう。そういうものだ。
「それぐらい、人は傲慢なの」
「なるほど。それなら僕にもわかります!」
 高く柔らかい声音が戯ける様に、笑みが漏れた。
「どうしました?」
「メールの文面と随分印象が違うから」
「一応、初対面ということになりますからね。丁寧にお誘いしようとしたら、ああなっちゃいました!」
 水色の短い髪を揺らし、少年は喉を反らして笑う。プレイヤーネームは欅。私が少年について知るのは架空の名前ぐらいだが、少年の方は私のことをよく、知っているのだろう。
「……文面よりまず先に、メールの送り先を考えるべきだったね」
 ある日、唐突に少年から送られてきたメール。それが届いたのは限られた、本当に数少ない人しか知り得ない私個人の連絡先であった。
「多少、乱暴なやり方だったと反省はしてます。どうしてもあなたと……一時でも女王の興味の矛先が向けられたあなたと、こうしてお話がしてみたかったんです」
 踊るように跳ねていた声音は一変し、落ち着き払った調子となる。
「気を悪くさせてしまったなら、すみません」
「女王って。懐かしいね。そんなこともあったね」
「……怒ってますか?」
「ビックリはしたけど怒ってないよ。それに手段としても悪くない。仕事用の方に送られてきたらスルーしてたと思う」
 露骨に胸を撫で下ろした少年に、「呼んでくれてありがとう」と告げた。そろそろだろう。私たちはのらりくらりと世間話を交わすだけで、本題には至っていない。「それで」
「あなたはそこまでして、私と何を話したかったの?」
 私と同じように少年も背もたれに寄りかかる。
「一年と三ヶ月ほど前に」
 コントローラーを握る手に力が入った。
「ここで起きたことを」
 決して把握できるはずがない。
「もうすぐ終わる、この世界で何が起きたか」
 ほんの僅かな動揺だった。
「彼に関わり抜くと、そう決めたあなたは知りたくないですか?」
 少年は薄く開いた瞳を煌めかせ、私へと微笑みかけた。
「あなたは、かつての世界を救う一端を担った。そして、今回の一件の根幹に関わった彼と……少なからず、関係がある」
 選ばれた「少なからず」という表現は、少年なりの心遣いなのだろう。あいかわらず真意は掴めないが、「少なからず」という表現に悪い心地はしなかった。
「世界を救うって、他人から言われるとちょっと鳥肌が立つね。悪い意味で」
 あの頃の私は、いや、私たちの誰もが必死だっただけだ。たった一人の男の子の懸命さにあてられて、流されるままに動いていただけのこと。――他人事となった今では、当時の記憶はあまりにも鮮烈で、思い出すと気恥ずかしさに駆られる。
「どれも昔の話」
 今回の一件とやらでは当事者ではなく、部外者として事後処理に追われていたから、正直に言えば思い出したくない部類の記憶に入る。寝る間もなかった。一段落した後、病院で点滴を打たれたときの記憶の方が鮮明だった。
 一年と三ヶ月ほど前。耳で聞くと、そんなに前のことではないように思える。私の中ではもっと前のように起きた、それこそ「昔の話」の一つに数えられているのに。
「だけどその中には、今の話と言えることもある」
 当事者でも、部外者でもない。懲りずに伸ばした手を古い友人に貸し、登録上何の繋がりもない「赤の他人」の少女の面倒を見ている。今の私は関わっているのだ。彼と、彼に連なる意見に。
「……話してくれる? できれば最初から。できれば手短に。できれば、客観的に」
 少年は大袈裟にまばたきをし、薄く唇を開く。
「どうしたの?」
「……いえ。てっきり、断られるかと思っていたので」
 おかしなことを言う。
「私に話したかったんじゃないの?」
「それはそうですけど。……僕としてはどちらでも良かったというか、何というか」
「なにそれ」
 あれだけ大仰な前置きをしておいて何を言うかと思えば――だめだ、小刻みにお腹が震えてしまう。コントローラーを握った手を口元へ寄せ、笑みを漏らす唇を強引に押さえつける。「さっきも言ったじゃないですか♪」
「僕は単純に、あなたという人に会ってみたかったんですよ」
 終わってしまう前に。最後に。はっきりと口にしなくても、機械越しにでも伝わってくる。
「この世界で?」
 私は問う。
「この世界で」
 少年は答える。
 そして深く息を吐ききった後、和やかに語り出す。
「お話しましょう。僕が知る、この世界で起きた出来事について」
 コントローラーを整頓されたデスクへ置き、深く椅子へ腰かける。ボイスチャットだけならこのままでも事足りる。
「そしてまもなく、起きてしまうかもしれない災厄について」
 長くなりそうだ。――この世界は、本当に。最後まで忙しない。
さん。あなたはハセヲというプレイヤーについて、どこまでご存じでしょうか?」
 困ったような微笑みを浮かべ、少年は首を傾けた。

 2018年12月31日をもってサービス終了となることを、CC社は半年ほど前に公式発表した。御しきれないブラックボックスを放置することは、サービス自体の欠陥である。それによって引き起こされた致命的なバグをも、対処できないからと成り行きに任せ、都合良く目を瞑り続けていた。名を変え、形を変え、しぶとく続いた世界の終わりが、何とも呆気なく訪れようとしている。
 一週間後には全てが閉じる。
 そんな世界に縋りつき、彼はまだ、甘えようとしている。

   1

 腑に落ちた。そう言える。
 遠くはない先、「そのとき」を迎えるまでの私が確かに抱き、私を苛んでいた感情――筆舌しがたい不安であったり、身を引き裂かれそうな痛みであったり、だ――は、意図的にピントをずらされた彼の姿を目にしたときにはもう、消し去られていた。同時に、気づきもした。彼が何故、最後の会話をこの世界でしようとしたのか。彼には彼の目論見があったのかもしれないが、私にとってはすでに知り得ないことの一つでしかない。
 皮肉としか言いようがなかった。一緒にいたときより、別々の道を進んだ今の方が、彼の顔を頻繁に見ている。
 いつだったか。特別な日でもないのに、洒落たレストランで食事をしたときのことだった。それは覚えている。ほろ酔い調子の私が言った。一枚ぐらいまともな写真を用意しておくべきだ、と。珍しく彼は小綺麗なスーツに身を包んでいて、私は道ばたの写真機が目についてしまった。これだけ揃っていたら、後はもう、彼を写真機に突っ込み、お金を入れるだけ。少しして、ストンと落ちてきた写真には、彼らしくない畏まった表情が映り込んでいた。
 当時は「顔、変」だの「履歴書ぐらいしか使い道はない」だのと笑い合っていたのに、今や日本だけに限らず、世界中にばらまかれている。
 全世界の安全神話を根底から揺るがす「人災」を引き起こした犯罪者として、現代らしい磔刑を受けていた。十の文字、百の言語で罵倒され、晒し上げられている。
 当の本人が世間的には「雲隠れ」したせいもあるのか、連日、彼にまつわるあることないことが垂れ流されていた。有名無名なコメンテーター、学者、果てはそんな機関あるんですかという自称・何ちゃらの専門家たちと、彼は人格から好き勝手に解剖されていった。ぼんやりとしか知らなかった彼の生い立ちを、細かに紐解かれ、分析したところで、真実は誰にもわからない。むしろ起きてしまったことに対して行うべきは、今もまだ狂ったシステムの復帰と、「次」の回避と予防策であって、真相究明はその過程にあるものだ。それでもなお、彼という人間の人となりをあれこれメスを入れ、倫理と持論で標本にしようとする。彼らが目的としているのはカタルシスであって、真実ではないからなのだろう。
 真実なんてものは彼と――彼に関わった当事者たちにしか知り得ないことで、さらに言ってしまえば、人の数だけ形を変えていくつもの面を持ちながら存在する。
 結局のところ、部外者は事実しか共有できないのである。
 だからこそ、今になってようやく、本当に、終わってしまったのだと思い知らされた。
 彼の服の下にあるものを知っていたとしても、今の私は昼夜問わず、寝食さえままならないほど「人災」の事後処理に追われる一人でしかないのだ。
 三台あるうちの携帯電話が震え、動く。メールやメッセージの類いではないとわかったのは、動き続けた末に机から落ちかけた携帯電話を視界の端に捉えた頃だった。キーボードから両手を離し、最も使い古された携帯電話を寸でのところで捕まえる。スピーカーモードにしてから、再び両手をキーボードへ戻す。
「珍しいね、電話って」
 書きかけのプログラムを打ち込みながら、口を動かす。しばらく出していなかった私の声は、私のものではない音がした。
 咳払いを一つ。
「そっちは夜中でしょ。どうしたの?」
 私の声だった。
「……面会の話だ。期限が迫っている」
 押されたキーボードは淀みなく、正確に文字を綴っていく。
「行く行かないは君の自由だが。すでに転院先も、その予定も決まっている。もうすぐ私が口を挟める領域を越える」
 速やかに答えを出してくれ。青年は言った。
「わかってるよ、火野くん」
 時間感覚が狂っていても、日付の感覚はかろうじて残っている。猶予はない。これは、自分より年若い青年の最後通告だ。賢い青年があえて不確実で、調整も必要な電話という手段を取ってきた時点で察しはついていた。答えは今、出さなければならないのだろう。
「迷ってる」
「……だろうな」
 電話の向こう側で、青年が立ち上がったような気がした。 
「これは友人としての意見になるが」
 キーボードで打ち込まれる文字が初めて狂う。
「私は、可能であれば行くべきだと思う」
 これでは正常に動かない。正しく打ち込み直さなければならないのに、間違えたところを何度消しても、同じ打ち間違いをしてしまう。
「彼ではなく、君のために」
 頭ではわかっているのに。背もたれに身を預け、指に命を吹き込み直すように口を覆った両手へ息を吹きかける。
「……彼の意図するところではないと思うけど」
「散々、振り回されたんだ。彼に文句を言う筋合いなどない」
 そりゃあ、そうだ。覆われた口から漏れた笑い声は、青年にも届いていたらしい。呼応するように青年も笑った。
「火野くん、変わったね」
「自分ではよくわからないが……」
 そうか、と青年は独り言のように呟いた。
 一呼吸置き、やがて「変わったのか」そう飲み込む。
「色々あったからな」
「ちょっとは大人になったってことじゃない?」
 日付は変わり、月日は流れている。止まることはない。私にとって瞬く間に流れていった時間は、一人の人間にささやかな成長をもたらすに余りあるもので、それが少し、羨ましく思えてならなかった。孤高の鷲を彷彿とさせる目をした青年は、誰かを慮り、向き合う尊さを知ったのだ。
 目を瞑り、唇を動かす。
「ありがとう」
 綱渡りに近い状況で青年が手繰り寄せた。本来、部外者となった私には決して与えられなかった機会だ。
「君の」
 今更彼に会ってどうしろと、そう悲鳴を上げていることなど、青年には知る由もない。
さんの結論は?」
 何も知らずに眠っているだけの彼を眺めるためだけに、仕事に穴を空け、海を越えて行くことが、どれだけの労力と気力を要するのか。青年はわかっているようで、わかっていない。
 ベッドで眠っているであろう彼は、かつて暗がりで覗き込んだ顔と、似たような顔をしているに違いない。もし彼の手に触れたとしても、握り返してくれはしないのだ。わざわざ予定をこじ開けてまで会いに行くことに、何の意味がある。
「私は――」
 深く、長く、息を吐く。
 私は今、自分が何のためにここにいるのかさえ、見失っていることに目を瞑っている。そしてここからどこへ向かおうとしているのかも、わからずにいるのだ。

   2

 初めて知り合った頃から、何かと規格を逸脱していた。年頃らしからぬ雰囲気やら、知恵やら知識やら。容姿だけは飛び抜けて良かったわけではないが、それなりには整っていた。出来過ぎた。犬童雅人は、そういう男だった。故に、驚きはなかった。現実より目に見えて変化が可視化されるこの世界において、彼は「仕様外」の姿となって私を待っていた。
「久しぶり」
 マイクを通して聞こえた彼の声は、至っていつも通りの調子だった。
「ここでの君は、何と呼べばいいかな」
 君。「お前」ではなく「君」なのか。細かなことにすら反応してしまう。
「呼べない名前なんだから、好きに呼べばいいよ」
 私も彼も、この世界では名前が違う。彼はともかく、私の名前は自分でさえも呼び方がわからない。昔のように熱心にプレイするわけでもないから、誰に呼ばれる必要もない、意味のない記号を羅列した名前にした。
 この世界で彼と話すことはこれまでも幾度かあったけれど、呼び方を統一したこともなければ、「何と呼べばいいか」なんて聞かれたこともなかった。
「それで?」
 ここはいつでも日が暮れている。精密に造られた街も、規則的にたゆたう川も、照らされた夕日によって暖かく色づいている。石造りの橋の真ん中で、私たちは並んで川を臨む。
「オーヴァンは、何をしようとしてるのかな」
 監視下にあるこの世界で、彼が何も語ることはない。そうと知ってなお、問わずにはいられなかった。我ながらばかなことをと、頭の片隅で自嘲する。そもそもの話、――彼にほんの僅かにでも何かを語る気があったなら、私たちはこうはならなかったのだ。
には何をしてでもほしいものはあるか?」
「ない、と思うよ」
 何をしてでもほしいということは、手に入らないものと同じこと。自分の力だけではどうにもならない。
「あなたにはあるんだね」
 彼が欲していること。これから彼がやろうとしていることは、そういうものなのだろう。隣に立つオーヴァンと共に、彼も遠くを見つめているのかもしれないと思った。私には見えない。彼の瞳も。瞳の先にある何かも。何も、見えはしない。
「手は、尽くしたんだ」
「うん」
「俺にはもう、こうするしか」
 わかっている。頭に浮かんだのに、言葉にはできなかった。意思と反した唇は頑なに閉じていた。
「……いや、最初からこれ以外の道はなかったのかもしれないと、気がついたんだ」
 彼が落としていった点を、一つずつ繋いで線にする。線となった点が表すものは「終わり」なのだ。これまでの関係の終わり。これからの時間の終わり。私たちは終わり、「私」と「彼」となる。
 ため息が出る。唇はちゃんと開く。これは、それを確かめるための呼吸だと唱える。
 ふと、彼の手を思い出した。触れたときは冷たいのに、触れられたときは暖かい。不思議な手だった。私はそんな彼の手に触れられるとき、心まで震えてしまうほどの幸せを感じていた。ああ。うん。ここで彼と会う、「そのとき」を迎えるまでにあらかじめ奥へと追いやっていた自分に頷く。――手遅れになる前にせめて、一言だけでも伝えておけば良かった。
「私はあなたの、そういうところが嫌いだったよ」
 昔から何一つ、彼は変わっていない。
「自分一人が何とかすれば、どうにかなると信じて疑わないところが、心底嫌いだった」
 彼に守られたいとも、彼の力になって支えたいとも、私は願ったことなどなかった。私はただ、彼の傍にいたかった。これまで通りの毎日を過ごしていたかった。私の願いはそれだけで、それだけが叶わないと知る。
「……手厳しいな」
「綺麗に終われると思ってたの?」
「ああ」と彼は苦笑まじりに頷いた。
「思い知ったよ。俺は……最後まで、に甘えていたんだな」
「呆れた。あなた、ずっとそうじゃない。いくら言ったって、肝心なところであなたはずっと――」
 言いかけた言葉を遮って出てきたのは乾いた笑み。つい、彼ばかりを責めそうになってしまう。私にも非はある。彼の不変を咎めながら許し、彼とは別の形での不変を望んでいたのは私自身なのだ。
「いつか本気で思い知らされるときが来るよ」
「何を?」
「あなたが特別じゃないってことを」
 私ではだめだった。けれど彼が彼のままでいる限り、必ず思い知らされるときが来る。視界の端で、オーヴァンの右手が迫っているのに気づき、そっと離れた。
「その手じゃない」
 触れてほしいのは、オーヴァンの手ではない。重なった視線へ告げる。
「そうだな」
 と、右手を下ろした。
「愛奈ちゃんのこと……は、私が口出す話じゃないね」
 当たり前のように彼の傍にいて、いつしか私にとってもそれが当たり前となった少女。ドイツへ出張したとき、最後に顔を合わせた彼の妹が脳裏によぎる。
「……ああ」
「志乃ちゃん、とても良い子なんだから。甘えすぎちゃだめだよ」
 ここで数度、顔を合わせただけのプレイヤー。私よりよほど情に厚く、包み込むような柔らかい声をした彼女が、形なく頭に浮かぶ。
「わかってる。気をつけるよ」
 それから。後は他に。隅々まで巡らせ、忘れ物がないかを探す。
 まるで部屋の掃除をしているような心地だった。動かせるものだけを動かして、動かせないものはそのままにして。「綺麗に片付いた」と達成感で蓋をして、終わらせる。
「元気でね」
「君も。……もしどこかで俺が」
 なんでもない。瞳を閉じて、オーヴァンは俯く。
ならどうにでもできることだな」
「思わせぶりだし、買い被りすぎだし」
 踵を返し、オーヴァンへ背を向ける。
「じゃあね」
 手を振ってから歩かせる。気の利いた別れの言葉は思っていたよりも数が少なく、限られている。出会うより、別れる方が多いのに、言葉の種類は反比例している。
 ログアウトしようとコマンドを選択した矢先、彼の声が鼓膜を揺らした。ウィンドウに表示された「はい」と「いいえ」のどちらを選ぶか、一瞬の逡巡が私の手を止める。間違えてしまわないよう、慎重にコントローラーを動かした。
 ディスプレイはスタート画面に切り替わる。そのままゲームを閉じれば、アイコンが並ぶだけの殺風景な景色が視界に広がった。
 M2Dを取り外し、放り投げようとして我に帰った。引っ越し業者のマークが記された段ボールの山が、私を冷静にさせた。手首に巻かれたスマートウォッチを見下ろし、もうすぐ引っ越し業者が訪れる時間だと悟る。開いたままの段ボールへM2Dとコントローラーを入れ、養生テープを探す。
 彼と話す他にも、予定を入れていたのは正解だった。やらなければならないことが目の前にあれば、答えの出ない問題について考える暇もなくなる。
 最後に使ったのは確か、玄関だったはずだ。空っぽになった靴箱の上に置かれた養生テープを見つけ、立ち止まる。扉を見つめてから、廊下の先にある部屋へ振り返った。
 二十歳のときから住んでいたこの場所に、自分以外の人間を入れたのは一人だけだ。学生の頃から資金面でも自立し始めていたから、両親ですらこの部屋に立ち入ったことはない。
 彼だけだった。あらゆる意味で、彼だけだったのだ。
 本気で誰かと接しようと思ったのも、ありのままの自我を表に出せたのも――自分の隣に誰かがいてくれることを信じて良いと思えたのも全部、彼しかいなかった。
「なんで」
 部屋の中で一つだけ開かれた段ボールを見据える。
「そんなこと言うの」
 彼の名前を初めて口にしてから、十年近く。きっかけは、一世代前のあの世界。私と彼が歩んできた旅路の果てに至ったのがここだ。
 鼻を啜り、顔を上げる。こうしていないと化粧が崩れてしまう。養生テープを乱暴に持ち去り、しきりに手の甲を顔へ押しつける。
 ――巻き込めるはずがない。
 するりと入り込んできた彼の声が蘇る。
「お前だけだった。俺には、だけだったんだから」
 これ以上思い出すなと、思えば思うほどに蘇ってくる。
 何をしてでもほしいものがあるか。
 私にだってある。しかし、それは何をしようと手に入らないものだから「ない」に等しい。私が何をしてでもほしいものは、何をしてでも欲するのを阻むものと同じ。
 ほんの僅かな希望さえ打ち砕いてきたのは、他ならぬ彼なのだ。
 熱くなっていく目尻をたびたび指で押さえつけながら、段ボールの蓋を閉じ、養生テープで封をする。硝子の檻に閉じ込めるようなものでも、この悪あがきには意味があると思いたかった。
 どれだけお互いを大事に想っていようと、私も、彼も、すでに止まらない列車へ乗り込んでしまっている。仮想に終わりがあったとして、現実は死ぬまで終わりがない。生活がある。それは生きている限り、続いていく。
 だからいつか、時間が何もかも解決してくれる。
 ここからは戻れないのだから。
 そう信じる以外に、私ができることなどなかった。

   3

 片腕に抱いた清楚な花束を眺め、改めてこれで良かったのかと自問する。二十六年生きているが、花束を抱いたのはまだ二回しかない。一度目とまったく同じ心境に陥りながら、花屋に薦められるままの花を束ねてもらった。私から花屋へのリクエストは「お見舞いのため」だけ。一度目のときはまだ、どんな人に渡すか、ある程度把握できていたものの、今回はほぼ情報がないと言ってもいい。自信のなさで言えば、一度目を遥かに上回っている。
 悩んだところで、今更だ。
 肩の力を抜き、空いた片手で扉を軽く叩いた。
「どうぞ」
 少しして、聞き覚えのある柔らかな声音が返ってくる。扉越しでも涼やかな響きを帯びていた。
 横開きの戸を開けると、いくつも空いたベッドの奥でこちらへ顔を向ける一人の女性と目が合った。これでも視力は良い方だ。遠目であっても、彼女が瞳を見開いたのがわかる。
「……想像してた通り」
 ぽつりと彼女は呟く。
「こうして、お会いするのは初めてですね」
 逆光のせいで顔色まではわからない。私にわかるのは、ほんの少し前まで、半年ものあいだ彼女が眠り続けていたこと。そうとは思えないほど、彼女の口調ははっきりとしたものだったということだけだ。
 それでもいざ、彼女の細い腕から繋がれた管を見てしまうと、言葉に詰まって何も出てこなくなった。
 後ろ手で戸を閉めた後、花束を落とさないように注意しながら深々と頭を下げた。――何もしてないのに。彼女の微笑みに滲む弱々しさを垣間見た瞬間、途方もない罪悪感が胸を占めていた。ばかみたいな謝罪の言葉を口にしなかったことだけが、不幸中の幸いだった。
 まったくの他人でも、気の置けない友人でもない。彼女との距離感はまさに今、ここでの距離に等しい。
 自分の立ち位置を見失えば、途端に私は惨めな女になる。
 取り繕った気丈が真の気丈と見えるよう、努めて緩やかに背筋を伸ばし、「復調しつつあると聞いて」と口端を引き上げた。
「一目お会いできればと思い、ここまで来ちゃいました」
「ありがとうございます」
 お手本のような会釈を見せる。なるべく音を立てまいと慎重に歩を進め、彼女のベッドへと向かった。
 ベッド脇のサイドテーブルには、一輪の花が挿された花瓶と一冊の文庫本が置かれていた。白い花はまだどこか、瑞々しい。つい最近、見舞いに来た誰かがいるのだろう。
「ベタすぎましたね」
 花束を差し出せば、彼女は首を振りながら受け取ってくれた。「嬉しいです」と。膝へ花束をのせ、「どうぞ」傍にある椅子へ腰かけるように促した。ポケットからスチール製の名刺入れを取り出し、その中身を彼女へ渡す。空っぽになった名刺入れの蓋を閉めると、パチンといやに大きな音が鳴った。
「……ここでは『初めまして』ですね、七尾さん」
 名刺を花束へ軽く差し込み、「実を言うと」と彼女は苦笑する。
「あなたのことをなんて呼んだらいいか、ずっと考えてたんです。……私、あの人たちからしか、あなたのことは聞いてなかったから」
「まあ、そうですよね」
 あの世界でしか、私と彼女の接点はなかった。けれど、彼や彼の妹を通してお互いのことを知っている。私の抱える話しづらさを、彼女も抱いていたとしても何ら不思議ではない。
「向こうにいるときみたいに、話してくれたら嬉しいです。さん」
 こういうときの母国語はとてつもなく厄介だ。言い方の違いで相手との距離を表す。
「……じゃあ、志乃ちゃんも」
 遠慮がちに言う私に、彼女は顔を綻ばせて頷いた。
「今日は、私に会うためだけに日本に?」
 腕の代わりに足を組む。私と彼女はお互いのことを知っている。とはいえ、どこまで知っているのか。
「今……私が日本にいないの、知ってるんだね」
「最後に、あの人からさんの話を聞いたとき、ドイツへ行くって。今もドイツに?」
 なんだ、知ってたの。彼女に対してではなく、彼に対してでもなく、自分に呆れてしまった。何も相談しなかった。彼が私にそうしなくなったから、一人で考え、一人で決めた。
「今もそう。ドイツにいる。渡しておいてなんだけど、その名刺もこっちにいたときのなんだ」
 日本のような名刺文化とは縁遠い国だ。役職持ちなら話は別だが、私みたいな平社員が持つようなものではない。
「一応、裏側に今の住所と、連絡先も書いてあるから」
 ちらりと花束の中から飛び出した名刺を見て、彼女は「そっか」と漏らす。
「でもまた、変わるかもしれない」
「どうして?」
「私が向こうにいる意味ってもう、あんまりないから」
 今の会社は各国に支社がある。言語の壁を除けば、職務内容はほとんど変わらない。本社はさすがに厳しいが、時間はかかったとしても別の支社への異動願いは通るだろう。
「それは、彼女が目覚めたから?」
 そうとも言え、そうではないとも言える。私にはどちらともつかない。だから小さく微笑み、彼女へ判断を委ねた。
「……今でもあの子は"The World"にいる。世界中から恨まれてる兄を求めて、探してるんだよ」
 事態の急速な沈静化と、水面間近で起きている異変によって、「人災」が起きた当初に比べたら、幾分かほとぼりは冷めてきた。しかし一度、世間からつけられた「犯罪者」のレッテルは容易く消えたりはしない。
 目覚めてすぐにまみえた少女は、ひどく取り乱していた。――おそらくは今も。
「あの子にとって私は、今も昔もただの他人だから。あの子が目覚めた今、できることなんてないの」
 眠っていたはずの出来事を少女は知っていた。なぜかはわからない。彼との繋がりが断たれた私を「他人」と突き放した少女は正しい。事実なのだから。突き刺されたような痛みを覚える私の方が、間違っている。
「ここに来たのは、志乃ちゃんの顔を見て話したら、自分の中で整理がつきそうだと思ったからだよ」
 両手を重ねて握る。その手を膝へ落ち着けたら肩から力が抜けた。
 こちらの世界でも、あちらの世界でも何かが起きている。それを察せるだけで「何か」という真実は遠い。何も掴めないまま、掴もうとしないまま、時間だけが過ぎていった。
 青年に出した結論は、今日という日そのものだ。
さん」
 彼女と再び目を合わせ、凍りついた。これまでになく真摯な表情をしているのに、なおも穏やかさをまとっている。力強い彼女の眼差しに気圧された。
「私は眠っているあいだ、ずっと、あの人と一緒にいたの」
 あまりにも突拍子もない。
「だからね、わかるの」
 なのに耳を傾けてしまう。
「あの人の中に、あなたがいた。……ううん。たぶん今も、かな。いるんだよ、さんが」
 軋んだと思った矢先にひび割れる。病室はこんなにも静かなのに聞こえた気がしたのだ。苦しそうに微笑む彼女の唇は閉じている。劈くような、硝子の割れるような音が轟いていた。
 目を背くことはできない。胸を締めつける痛みがある。眠らせ、消えていくはずだった私の真実がここにある。おぼつかない手つきで胸元のシャツを掴む。鼓動の高鳴りを抑えきれなくなる。誰にも――彼女だけには絶対に、聞かれたくはなかった。
「……どうしてそれを、私に?」
 彼女にとっては秘めておいても良かったことだ。秘めたところで非などないのだから。
「なんでかな。私にもわからない」
 崩れた笑みを作り直して言った。
さんが私の想像してた通りの人だったから、かな。……なんだかね。あの人の隣にあなたがいたら、しっくりくると思っちゃったの」
 遠くを眺めるように瞳を細めた彼女が、高く透き通った声でそう口にした。
「あなたでよかった」
 散々と迷い、悩んだ末に決めたのが、彼女へ至る道で良かった。眠る彼を眺めたところで何も変わらなかった。腹をくくることなんて、できはしなかっただろう。
「話してくれてありがとう、七尾志乃さん」
 思いつくのは安っぽい言葉ばかり。回りくどい言い回しが増える気がして、文学的な本は徹底的に避けてきた。少しは触れておくべきだったと、今ならば思える。
 自分にできることは多くはない。だからと言って、何もできないわけではないのだ。
 両手を握り締め、今後について思考の糸が垂れたとき、彼女が不意に笑みを漏らした。
「思い出しちゃって」
 私の知ってる男の子のことを。
 そう言って彼女は花瓶に挿された白い花を、遠くを見つめるように眺めていた。

   4
 
 おそらくこれからの時間の方がずっと長く、私には感じられるのだろうと思った。成功しようが失敗しようが、私の時間はこれからも変わらずに続いていく。
 くぐもった轟音と共に、小刻みに突き上げられるような揺れを身に受ける。離陸準備のため、飛行機が滑走路を移動し始めたようだ。瞳を閉じてシートに身体を預ける。次に瞼を開いたときには、向こうに辿り着いていたらいい。何とも都合の良い考えがよぎる。
 十二月の半ばを過ぎたあたりから、今日を迎えるまでは一瞬のことだったように思えてくる。あらゆる調整やら七面倒くさい手続きやら、やること、やらなければならないことは尽きなかったというのに、済んでしまえば「あっという間」で片付けられてしまう。滞りもせず、事が運んでいったおかげだろう。
「……Sheisse.」
 一つぐらい、何か残しておけばよかった。読みかけの本をバッグに突っ込んできたものの、どうせ頭には入ってこない。映画もそう。寝て過ごすにしても、日頃の規則正しい生活が染み込んでしまっては難しい。およそ十一時間ばかり、ただ時が流れるのを待つしかない。――いや、違うな。
 向こうに着いたところで同じことだ。
 結局、私は待っているしかないのである。
 強引に眠るのを諦め、周囲を見渡した。搭乗時から気づいてはいたが、四方に誰も座ってない様を見せつけられると、この人の少なさは衝撃だった。無理もない。聖夜なのだ。誰もが家族や恋人、大切な人たちとそのときを過ごそうとする。そんな日に、飛行機に乗っている方がどうかしていて、そのどうかしている人たちを目的地まで運んでくれる航空会社に頭が上がらなくなる。
 きちんと整えられたままのシートたちから、窓へと顔を向けた。そこかしこに明かりが灯っていても、情けない面をした自分が透けて映るぐらいに外は暗かった。
 よく、許してくれたものだと思う。
 本当なら誰よりも、彼のもとへ飛んで行きたかったのは彼女の方だったはずだ。
 ――兄さんの傍にいてあげてください。
 爪が食い込むほど強く、私の手を両手で握りながら言った。
 ――わたしには、それだけができないから。
 苦汁の決断だっただろう。手術は成功したとはいえ、彼女はまだ、国外へ行けるまで回復したわけではない。彼女の身近で、自由に動けるのは私だけだった。
 ――わたしには何もできない。それが悔しくてたまらない。
 止め処なく溢れる涙を流し、俯いた彼女の姿にかつての自分と彼を思い出した。もう何年も前。彼らの両親が亡くなってからしばらく経ってからだったと、記憶している。
 彼を取り巻く境遇はたった一月で一変した。
 唯一の肉親は十四も離れた幼い妹のみ。
 頼れる身内は遠くに住む親戚のみ。
 両親の死後、淡々と処理を進めた彼は、これから必要なものと残されたものとを天秤にかけ、速やかに行動に移していった。済し崩しに学校を辞め、幾つもの仕事を掛け持つようになった。そして誰に誓うわけでもなく、彼は彼女のために生きると決めた。一つの終わりを迎えたあの家で、彼は壊れたように涙を流していた。自分が泣いていることにも気がつかないぐらい、自分への興味も関心もない彼を腕に抱きながら、私は私で勝手に決めたのだ。傍にいよう。何があっても、彼の傍にいようと。
 あまりにも昔の、取るに足らない幼い決意だったから、すっかり忘れてしまっていた。
 そういえば、あの日の彼も――
「始めから、これしかなかった」
 呟く。同じ人から二度も言われた言葉を、自分の口で言うのは妙な気分だった。いつ、どのタイミングだったのかは定かではないが、あるときから時が止まったような感覚に陥っていた。惰性とは少し異なる。時の経過が、数字の切り替わりでしかなくなっていた。もし何かあったとしても私の生活が脅かされることはなく、この日々は永遠に続いていくと錯覚させる安寧を、良くも悪くも私は早期に手に入れてしまっていたのかもしれない。
 縋りつくように私の身体に腕を回したことが、彼にとってどれほどのことだったのか、あの日の私にはわからなくても、今の私なら痛いほどわかる。
 限られた時間の中で、私は私にできることをやった。だからだろうか。気晴らしも満足にできないほど気が気ではないのに、不思議と心は凪いでいる。
 サマーバケーションもろくに取っていなかったのもあり、クリスマスから一月近くの長期休暇はあっさりと許された。年越し後の状況次第では、休日の延長を申し出ることになるかもしれない。それをきっかけに会社の機嫌を損ね、さらに多くの物を失う可能性だってある。
 そうなったらそうなった、だ。現実にはリセットボタンも初期化もない代わりに、リカバリーは気持ち一つで行える。
 あの日の私たちの手にはなかった大人たちの持ち物が、今の私の手にはある。具体的に言えば、今になって使い道を見出した預金や、今後人一人養えるだけのスキルと伝手がある。恙なくバックアップを行う心強い友人もいる。
 何があっても今の私ならば持ち堪えられる。
 だからこそ、ここから先は「ハセヲ」と、「ハセヲ」に関わる者たちに任せられるのだ。
 見放され、まもなく閉じようとする世界で、彼がオーヴァンとして終わろうとしていようと、彼自身がそれを望んでいたのだとしても、私はこの世界で待つ。
 ここで犬童雅人の行く末を見届ける。



 帰国した翌日、彼の容態は急変した。もともと手の施しようもなかった病院側は、起こるべくして起こった事実を告げた。
「明日までは保たないでしょう。こちらでご家族へ連絡しようと思うのですが、妹さんは確か――」
 私の目には、昨日と今日で彼の何が違うのかはわからなかった。消え入りそうな穏やかな寝息を立てて、彼は瞳を閉じているだけ。少しずつ乱れていく機械音と、担当医のいやに神妙な顔つきでしか、異変を感じ取れずにいる。
「連絡はこちらで行います。通話は別のところで行った方が?」
「いえ、ここで構いませんよ。個室病棟ですので」
「彼をどこかに移すといったことは?」
「こちらとしても可能な限りの手は尽くしたいところですが」
 無意味な前置きは結構だ。
「わかりました。彼はこのままここにいる、ということですね。……もう一つ。面会時間についての融通はききますか?」
 面会の手続きをした際、私と彼の名字が異なることは病院側も把握しているだろう。家族ではない人間がどこまで許されているのか、知りたかった。
さん、でしたね。費用負担をなされている方であれば、こちらとしても何ら問題はございません」
「ありがとうございます」
 儀礼的な感謝を述べ、彼を見下ろす。 
「……酷なことを言うようで申し訳ございませんが、今後のことについてのご相談はあなたに?」
 その無意味な前置きはうんざりだ。
「私で構いません」
「承知いたしました。よろしくお願いいたします」
 慇懃な態度で深々と頭を下げてから、担当医は私と彼とを見渡した。立ち去る空気を見計らっているのだと、すぐに気がついた。
「……彼と二人にさせていただけますか」
 待っていましたと言わんばかりに、「失礼しました」と担当医は答える。
「何かあればすぐにお知らせください」
 呆れた。それがわからないから、あなたみたいな専門職が存在するのだろうに。――いや、もういい。「わかりました」と口早に言い、昨日も座った椅子に腰かける。一礼の後に担当医は病室を去った。たかだか数分のやり取りだったにも関わらず、疲労がどっと押し寄せる。今からさらに疲労するとわかりきっているのに、余計な体力を使わされた。
 ベッド近くにあるサイドテーブルには、M2Dとコントローラーが置かれている。彼の目覚めに、あるいは彼が目覚めてすぐに使えるよう、誰かが置いていったのかもしれない。
 携帯電話を取り出し、先にどちらへ伝えるべきかを考える。真っ先に伝えるべきは愛奈の方だが、確実にこれまで以上に取り乱すことは必至。ならば、先に伝えるべきは彼女の方か。
 電話帳から目当ての名前を選び、携帯電話を耳へ寄せた。
「……もしもし、志乃ちゃん? 久しぶり。私、です。うん、久しぶり」
 あまり時間は残っていない。手短に伝えなければと思うと、携帯電話を握る手に力がこもった。
「そう、彼のことで」
 昨日から今日にかけて容態が悪化し、危篤状態となったこと。これから愛奈にも同じ話を伝えること。なるべく端的に話をまとめながら、一つずつ彼女へ伝えていった。
 そんな気がしてたの。すべて聞き終えてから、彼女はそう言った。今度は私が彼女の話を聞く番となった。
 今朝方になってオーヴァンが見つかったこと。すべてを拒絶するかのように氷の中でオーヴァンが眠っていること。そんな状況を打破しようと、彼女も含め、「ハセヲ」たちがあの世界で奔走していること。――一頻り話した最後、彼女は私にどうするのかを尋ねた。
「私はここで答えが出るのを待つだけ」
 彼女は苦笑を漏らし、もう一度「そんな気がしてたの」と繰り返す。携帯電話を頭と肩で挟み、椅子から立ち上がる。ベッドを回り込んで、自由になった両手で彼のM2Dを起動させる。ディスプレイはブラックアウトしたままだった。
「向こうで愛奈の傍にいてあげて」
 M2Dを彼の頭へ取りつけ、コントローラーを利き手に握らせる。
「志乃ちゃんたちは向こうにいて」
 こんなことをしても、何の意味もないのかもしれない。けれどもこうするべきだと思った。
「きっと彼は戻ってくるから」
 欅の話す物語の中にいた「ハセヲ」は、オーヴァンの身勝手を黙って許すような子ではないと、今の私は知っている。
 そうだね、と彼女は静かに呟いた。
 通話を終え、携帯電話を握り直す。次は愛奈だ。向こうはまだ早朝であったが、愛奈は起きているに違いない。今年が終わりに近づくにつれ、まともに眠れなくなり、せっかく上向き始めた体調を再び崩し始めてしまっている。
 コール音に耳を澄ませながら、空いていた片手で彼の手に触れる。私から触れた彼の手はやはり、冷たかった。



 うたた寝でもしていたのか。乱れた機械音にもすっかり耳は慣れてしまっていて、握り続けていた彼の手も私の体温と調和してしまっていた。窓から入る光はいつの間にか暖かな色合いを帯びて、私たちを照らしていた。
 眠ってなどいなかった。ずっと起きていた。現に、定時ごとに様子を見に来た看護師や、担当医と一言二言交わした覚えがある。喉は渇ききり、アラートを鳴らし続けても何もしない主に業を煮やしたお腹も、いつしか黙りこくっていた。
 数時間経っても、彼は相変わらず。今朝から飲まず食わずの私の方が色々と限界である。無造作にソファへ放られた袋を見やる。袋の中には病室へ訪れる前に売店で買った、水の入ったペットボトルと菓子パンが入っている。
 いい加減、何か口に入れておかないと私の方が保たない。
 彼の手を放そうと指を動かす。予期せぬ動きが私の手の中で起きた。目を見開き、振り返る。彼に変化はない。勘違いだと流してしまおうとする思考を食い止めたのは、再び彼の手を握り直した私の手でもあり、私の手を握り返そうとする彼の手だった。
「……もう、驚いたりしないよ」
 驚いたのは、この状況ではい。自分の声に驚いた。地を這うような低い声は、本当に私の口から出たものなのか。
「……そうか」
 私とは比べものにならないほど低い声が返ってくるや否や、力任せの乱暴な手つきで、彼の目元を覆うM2Dを押し上げていた。
「……随分と長い、夢を見ていたようだ」
 私でもわかる異変を前にしてすべきは一刻も早く担当医を呼ぶことで。そうとわかっているのに、閉じられたままの瞼への苛立ちが募る。
「他に言うことないの?」
「怖いんだ」
 彼の唇が動く。しっかりと動いている。
「今更何が怖いの?」
「今の君が。……君がこれ以上なく、怒っている気がしてね」
 眉間に皺を寄せ、これでもかと彼の手を握り締めた。
「ならキスでもしましょうか、お姫様」
「そんな冗談を君が口にするなんて」
 笑みを漏らした彼が、私の手に指先を這わせた。
「先に、笑えない冗談言ったのはそっち」
 怖ず怖ずと私を窺うような彼の指を見下ろし、固く口を閉ざす。彼が答えてくれるまで、私からは何も言うつもりはなかった。しばらくの無音に、深く息を吐いて音を発したのは彼だった。笑みの消えた顔で、億劫そうに口を開いた。
「つくづく思わされる」
「何を?」
「思い出とは喜びしかないものなんだな」
「……自分の中で完結するからね」
 まだ。いや、またか。どちらでもいい。「まだ」にしろ、「また」にしろ、彼のしぶとさにはほとほと参る。
「そう、良くも悪くも誰にも干渉せずにいられる。……だが、それだけじゃない」
 かつて自分もその場所にいたからわかる。俯瞰するように見えてくる。彼自身の手でゆっくりと、遠回しに紐解かれていく彼という人となりに、新鮮味はなかった。
「始まりがないということは、終わりがないということ。それすらも幸せなことなんだ」
 ほら、やっぱり。唇を引き結ぶ。気が抜けてしまう。どれだけ年を重ねても、どこまで行っても彼は彼ではないか。
「あなたって」
 重たい腰を持ち上げると、椅子が軋んで悲鳴を上げた。
「いつもそう」
 彼を睨みつける。
 もう遅い。向こうで何があったかは知る由もないが、彼は結果的にここへと帰ってきた。それは仮想でも真実でもない。――覆しようのない事実だ。
「自分のことになると、途端にポンコツになるんだから」
 冷ややかに瞳を細め、
「いつになったらあなたは、あなたを生きるの?」
 と、パジャマの襟を掴んで引っ張る。突然のことだったらしく、瞼にしまい込まれた彼の瞳が露わになった。
「あなたは犬童雅人でしょう」
 頭の中で何を考えているかは彼の自由だが、思想へ逃げ出す隙をこちらも見逃すつもりは毛頭ない。
「人にばかり自分の足で歩かせてないで、あなたも自分の足で歩きなさいよ」
 彼の頬を撫でるように叩く。
「……俺はここにいる君がどんな顔をしてるのか。確かめるのが、恐かったんだ」
 近くに鏡はないから、自分がどんな表情をしているのか、確信めいたものは何もなかった。 
「……私は今のあなたに怒ってるんだよ、雅人くん」
 けれど、子どもみたいに透き通った目と、目を合わせたときに何となく察しはついた。つられたように微笑む彼の顔を見るのは、これが初めてのことではないのだから。
「本当に残念なことだけど、この世界に、綺麗な終わりなんてどこにもない」
「そう都合良く、思い出に変わってはくれない。……というわけか」
 間の抜けた笑みを漏らす。
「どちらの世界も、全てがあなたの思い通りにいくわけじゃないってことだよ」
「……どうやらそうらしい」
 再び瞼を閉じた彼はため息をこぼした。
「アイナと、志乃に言われた。がここで待っているからと」
 ぽつり、ぽつりと続けていく。
「八咫にも聞いた。無限にデータを吸収する特性のある災厄の、自己修復機能を壊し続けるプログラムを君が組んだと」
 さすがだな。心から感服したように言う。
「火野くん……八咫にもあとでお礼言っておくんだよ。何企んでるのかは知らないけど、彼は彼でその土台に添ったプログラム組んでくれたんだから」
 不安定になるネットワークを独自に調査し、異変の兆しを察知した青年はいち早く動き出していた。事前に青年からのコンタクトがなかったら、私が欅に会うこともなかっただろう。
 一つでも何かがずれていたら、どうなっていたかはわからない。 
「こんな綱渡りで、ブラックまがいなこと、もう二度とさせないでほしいよ」
 残り時間はもちろん、古巣の情報を盗み見たり、あの世界の裏側を覗きに行ったりと、色々な意味でスレスレだった。
「昔とは違うか?」
「分別もない子どもじゃないってことだよ」
 黒歴史を掘り返されるのはごめんだ。跡がつくほど握った手を緩める。
 そろそろ、さすがにこの部屋の外にも状況を知らせるべきだろう。ナースコールを押したり、思い出したかのように鳴り始めたお腹の機嫌を取らなければなかったりと、私のやることは山積みなのである。
「……雅人くん、手」
「まだ、肝心なことを伝えてない」
 ずっと眠り続けていたにしては、やけに彼の身体はまともに動くものだと感心してしまう。振りほどけないぐらい強く、今度は彼の手に捕らえられている。
「昔より強くなったと思っていたが、の前だと俺は何も変わってないと思い知らされたよ」
「それが伝えたかったの?」
「……いいや。なんだろうな。一言では到底、まとまりそうにない」
「何をそんなに焦ってるのか。……ばかね。もう、急がなくていいんだよ」
 もう片方の手で宥めるように彼の手を包む。
「あるでしょ。今の雅人くんに、ぴったりな言葉が」
 顔を覗き込み、首を傾けた。
「ただいま、
「おかえり、雅人くん」
 彼の瞳の中でちらりと見えた私は、優しく微笑んでいた。

   5
 
 時とは途方もなく長く、ともすれば一息吐く間に過ぎ去っていく。あと数時間もすれば、新しい年を迎えている。
 悠久の名を冠する街は、どんなときも変わり映えのしない姿をしていた。夕日に照らされた古都で、人々はそれぞれ、思い思いの最後を過ごしている。
「えっと、その……なんて読むん、ですか?」
 彼の戸惑いは、機械越しでも手に取るように伝わってきた。真っ当な反応だったにも関わらず、私は堪えきれずに笑ってしまった。当然のごとく、彼の戸惑いは加速する。諫めるようにコントローラーを握る手を包まれ、「ごめんね」と慌てて謝った。
「その返し、久しぶりすぎて」
「……あー、そう、なん、ですね?」
 どう接したらいいのか、距離を測りかねている彼になおも笑みが込み上げてくる。
「畏まらず、いつもの感じでいいから」
 おどろおどろしい黒衣を身に纏っていても、気まずそうに頬をかく姿を見ていると、話に聞いていたよりもずっと普通の男の子に思えた。
でいいよ、ハセヲくん」
「あ、ハイ」
 ぎこちなく彼が頷く。背中から小刻みな震えを感じ取った。静観を決め込んでいたはずの者まで笑い出してしまったら、収拾がつかないではないか。肘で背後を小突く。
「随分大人しいな。俺に気にせず、いつもの調子でいいんだぞ」
 低く落ち着いてはいるが、心なしかいつもよりかは明るい。そんな声が重なって聞こえてくる。
「わかってて言ってんだろ。……ったく」
 白い髪をかき乱し、腰を屈めて目線を合わせてくる。
「……今回、アンタも力を貸してくれたって聞いた」
 咄嗟にコントローラーを動かし、彼の口を両手で塞ぐ。
「ありがとう」
 どうしても、私から言いたかった。そのために今日、この世界で彼に会おうと決めたのである。役目を果たした両手を下ろす。
「この人をぶん殴ってくれて」
 この世界では隣に立つ男、オーヴァンを見上げて言う。
「そっち?」
「さすがに、病み上がり相手にできないでしょ?」
 怪訝そうに彼も私と同じように顔を上げる。
「言っただろう、ハセヲ。彼女は恐い人なんだ」
「言い方」むっと呟く。
 ハハハ、と乾いた笑みを漏らす。
「……結構、新鮮かも」
「新鮮? 何が?」
「普通にオーヴァンと話してるとことか、容赦ないとことか」
 唖然とした。M2Dをしているから顔は見れないとわかっていても、後ろを振り向いてしまう。
「……ここでどういう過ごし方してたら、こんなこと言われるの?」
「お前も知ってるだろう。どうやら、そういうことらしい」
「自分のことでしょ。他人事みたいに言わないで」
 左手でお腹に回された腕を数度叩く。
 軽く噴き出し、「やっぱ新鮮だ」くしゃりと顔を歪ませた彼が言う。
さんと話してると、オーヴァンもフツーの人間なんだなってw」
「……俺を特別じゃないと言ったのはお前だろう」
 つまりはそういうことだ。肩に顔をのせられたせいか、小さな声でもはっきりと聞こえた。オーヴァンは彼に、背後の男は私に言ったのだろうと思った。
 ほらね、私の言った通りになった。声に出したらマイクに拾われてしまうから、胸の内だけに留める。代わりに、私を抱き締める片腕から伸びた手に左手を重ねた。
 私一人だけでも、彼一人だけでも。――誰にしても一人だったら、決してこの一時に至るところまでは辿り着けなかった。
「で? 二人はこれからどうするんだ?」
 こんなにも軽々しく、これからの話ができる。今この瞬間を大切だとは思えることなんて、誰か一人でも欠けていたらおそらくはできなかったのだろう。
「せっかくだ。この三人で一度、冒険でもするか」
「私一度もエリア出たことないよ。というか、レベル差ありすぎじゃない?」
「……そっち?」
 先ほど同じことを彼は言う。「まあ、いーけど」そう呆れながらも、彼は近くにあったカオスゲートを親指で指す。
「どこのエリアにするかも、エリアレベルもさんに合わせればいいだろ」
 電子音と共に、一日限定のメンバーアドレスが送られてくる。
「行こうぜ」
 そう言って、彼は歩き出した。 
 オーヴァンと顔を見合わせ、笑い合った。
 リアルのことを彼が尋ねたのは、私たちにもわかっている。
 彼の問いには答えようがなかった。私たちの関係に限って言えば、これから新しく始めることは何もないからだ。
「ねえ、ハセヲくん。ここにはどんなエリアがあるの?」
「どんなって。草原とか、神社とか、色々」
「見晴らし良いとこがいいな」
 小走りで彼に追いつき、二人の後ろをオーヴァンが緩やかについていく。すれ違うプレイヤーは様々だ。名残惜しそうにする者もいれば、晴れやかに語り合う者もいる。それでも等しく、明日が訪れる。新しい年の始まりと共に、この世界のなくなった日常が始まるのだ。
 ウィスパーモードに切り替えてから、オーヴァンへ話しかける。
「ハセヲくんに言わなくていいの? アイナとのこと」
「もう知ってるよ」
「落ち着いたら、向こうに呼んであげたら?」
「それもいいな」
 カオスゲートの前で立ち止まった私たちに、「何話してんだよ」と彼が唇を尖らせる。さすがに露骨だったか。ウィスパーモードを解き、彼に言う。
「これからの話をしてたんだよ」
 あとね、と彼の袖口を引き、屈むように求める。私でも届くところまで彼の頭が近づき、内緒話でもするかのように耳元へ顔を寄せた。
 再度、ウィスパーモードへ切り替え、ボイスではなくテキストチャットで告げる。多少不便ではあるが、これならば背後の男にも聞かれずに済む。ハセヲくん。彼の名前を打ち、続きを入力していく。
 ――今があるのは、あなたも諦めないでくれたから。
 男の鼓動が背中に触れている。
 ――だから、本当にありがとう。
 照れくさそうに彼は微笑み、「いいって」と呟く。

 優しい腕に包まれながら、この世界は歩くような速さで流れていく。

220622