カーテンコールは
鳴りやまない


 口に出して初めて、ストンと落ちる。言おう。言おう、言おうと必死に削り出したものじゃない。これまでに味わったものをすべてを込めて、相手を傷つけようと思ったものでもない。言うなれば、咄嗟の一言。例えようもない。わたしの本心だなんて言いたくなかった本心だった。言ったらどうなるか。わかってたから、言いたくなかった。絶対に。それなのに口から出るのは一瞬で、わたしたちのあいだに鉄格子ができるのも一瞬だった。お互い、見えてる姿は変わったわけじゃない。声は届く。手を伸ばせば触ることだってできる。ただ、もう同じ場所にはいられなくなった。
 これは、そういう言葉でもあった。
 そしてこれ以上の言葉はなかった。
 ひどいことを言ったのはわたしだったのに、息を吸うたびに苦しくなっていくのはどうしてなんだろう。口に入れるものは味がしたのに、どんな味だったのか思い出せない。どうしてなんだろう。さっき食べた夕飯よりも、もっと前に見た「ユカちゃん」のことはこんなにもはっきりと覚えているのに。これだけ苦しんでるのに言えない。
 ごめんね。あのときのわたし、ちょっとおかしくって。ひどいこと言って、ごめんねって。胸の前に言葉はあっても、形にできなかった。顔を合わせなくても伝えられる手段はいくらだってある。アプリに、電話。ちょっと古いけど、アドレスは知ってるからメールもできる。
 わたしは四六時中、スマホを握っていた。行儀が悪いわと叱られても、ご飯を食べているときだって傍に置いていた。夜、寝るときも。朝、起きたときも。握っていたり、枕元から落ちてベッドの下に転がっていたりもした。
 コードの差し込み口を挟むように、スピーカーの穴が十二個空いている。なるべくスマホを見ないようになってから、初めて知った。本当は電源も切ってしまいたい。でも、できない。わたしの世界は「ユカちゃん」だけで作られているわけじゃないから。「何かあったの?」にもちゃんと、答えなきゃならないのだ。
 ちょっとこじれちゃって。ケンカじゃないの。両手を合わせた絵文字。大丈夫。ビックリマークの絵文字。変な空気出しちゃってごめんね。ちょっとふざけたスタンプ。既読。既読のおしりにある数字が増える。増える。意味のないスタンプ。また、スタンプ――ほっといて。打つだけ打ってぜんぶ、消す。フトンに入ったネコのスタンプを送り、ベッドにスマホを放った。
 CDラジカセが時代遅れの代物だろうと、小学生の頃にお父さんからおさがりでもらって以来、わたしの部屋ではいつまでも現役のままだった。お小遣いを貯めて初めて買ったCD。そのCDを買うときにもらえた特典のポスター。まだ小さくて行けなかったライブのDVD。中学の入学祝いに買ってもらった腕時計。名前のイニシャルでもないのに、"M"の文字が揺れるブレスレット。これみよがしに物を買い足したりしていないのに、わたしの部屋は物で溢れている。なくしたり、捨てたりしないから物が減らなかった。
 わたしは物持ちがいい、らしい。
 そうわたしに教えてくれたのも「ユカちゃん」だった。
 わたしの好きな物で作られた部屋なのだと教えてくれた。居心地が良い。素敵な部屋だね。これまでにも友達を部屋に入れたことはあったけど、そんなことを言ってくれたのは「ユカちゃん」だけだった。何気なく、独り言みたいに言われた。褒められたわけでもないのに嬉しかった。あのときもわたしは言えなかった。ビックリするのに気を取られて、嬉しいも、ありがとうも伝えられなかった。この部屋がわたしの好きな物で作られているのだとしたら、そこにいた「ユカちゃん」だって――また、息苦しくなる。座ってもらうために置いたクッションを、カワイイと抱えてカーペットへ直に座った後ろ姿が、あのとき見たままの、くっきりとした幻みたいに見えてしまう。たぶん、もう。もう、ここに「ユカちゃん」が来ることはない。CDラジカセから流れてくる曲を聴きながら、同じ雑誌を見たり、学校のことを話してみたり。MCを覚えるぐらい何度も観たはずのライブDVDに新しい想いを抱くことも、揺れ動いた感情をそのまま口に出し合ったりすることもない。「なくなってしまった」ことが一つずつ頭に浮かぶたび、夜だとか、お母さんたちに聞こえてしまうだとか、ぜんぶ吹き飛んで声の限りに叫んでしまいたくなる。それでもやっぱり、涙はまだ出なかった。理由は漠然としている。机に置かれた参考書や赤本にも追いやられず、中身を透かす小さなファイルが置かれたときのままでいる。
 これがあるからかもしれない。未来の日時と場所、目的が印刷された紙は何も変わっていない。わたしが「ユカちゃん」にひどいことを言って、友達たちにまで変に思われるようになっても、この紙はまだ、チケットとして存在している。
 ――真っ只中だからこそだよ。
 こんな時期に頭おかしいって言われても、わたしは知らないよ。
 ――これがきっかけで何か変わるぐらいなら、もともとがダメだったってことだしさ。
 そうだね。たった一日で頭が真っ白になるなら、そもそもの勉強が足りてなかったってことだもんね。
 ――一日ぐらい楽しんだって、バチなんか当たらないよ。
 もしも当たったのがわたしだったら、あー、残念だったな。で、終わってたかもしれない。たとえ、これがきっかけになるかもと思っても、踏み出せるほどの勇気はなかった。
 ――ね、行こうよ。一緒に。
 どれだけあなたのバランスが崩れていっても、それでもまだ、あなたがまだ、もがくのをやめられずにいる。わかってる。あなたがそういう人だって、わかってたんだ。
 ――約束だよ。
 だんだんとこの約束の意味合いが変わっていたことも、あなたは気づいてたんだと思う。それがわかってしまったから、わたしは口に出してしまった。
 あなたが気づいてしまったように、私だって気づいてしまった。あなた自身が「ユカちゃん」でいることがつらくなっていっていると、わかってしまったんだもの。
「もう、無理だよ」
 わたしは残された時間の中で、あと何が、あなたに何を伝えられるんだろう。
 これ以上の言葉が、本当にあるのかな。本当にあるのかも、見つけられるのかもわからないのに、わたしは涙も流せずに探し続けている。

   *
 
 チケットに記されたライブの日付は、私立大の受験が終わろうとする頃。国立大の受験は続いている頃だった。
 最寄り駅に降りていく人は少ないとも、多いとも言えなかった。ライブ会場ぐらいしか目立つ物がない駅だから、きっとこの人たちはわたしと同じ目的で来ているんだろう。コートのポケットに突っ込んだままの手を握り締めた。自分と同じような人たちがこれだけいる。たったそれだけのことなのに、胸が熱くなった。
 かつて絶頂を極めたときに比べたら、彼女の名前を見かける機会は減っていった。満席とは程遠い。ライブの記事をネットニュースで読んだとき、そんな一文が添えられていた。まるで落ちぶれたような書き方にムッとした。確かに絶頂当時に比べたらファンは減ったかもしれないが、ゼロじゃない。彼女がどんな形でも歌い続けてくれている限り、それを聴く人はいて、心を動かされている人もいる。
 改札の前には、ちょっとした人だかりができている。会場までの道順がざっくりと描かれた看板を持ってアナウンスをする人だけが異質だった。かじかんだ手で握ったスマホが震える。セブンを右に曲がったところのベンチにいるから。画面に表示された通知を読み、周りを見渡す。息が白い。"7"の看板を見つけ、早歩きで向かう。空気の通りは良い。どん底にいたときにずっとあった息苦しさは、今のわたしにはなくなっていた。
 コンビニを右に曲がると、小さな公園があった。滑り台とブランコが二つ。ベンチが一つ。そこに誰も座っていない代わりに、ブランコが一つ埋まっていた。
 足音に気がつき、下を向いていた顔がこちらを向く。
「久しぶり」
 控えめなお化粧に彼の迷いを感じた。
「久しぶり……」
 彼をどう呼べばいいのか、わたしまで迷ってしまった。
「受かったんだって? おめでとう」
「ありがとう。……って。最近、したばっかりなのにね。この会話」
 隣のブランコへ腰かける。こんなに揺れるものだったっけ。スマホをポケットへしまい、両手で鎖を掴む。嗅いだつもりもないのに、鉄臭さがすでにある。氷みたいに鎖は冷たい。
「めでたいことなんだから、何回祝われたっていいんだよ」
 両手を膝へのせたまま、彼はまた地面を見下ろしていた。彼の足下だけ砂地が荒れている。描いたり、消したり。それを繰り返してできた跡なんだろう。
「カツラ、取ろうか?」
「なんで?」
 膝を曲げたり、伸ばしたりするのに夢中なふりをする。
「なんとなく」
 いつもよりお化粧が控えめな理由を垣間見て、首を振った。カツラだって。ばかみたい。地毛だって知ってるのに。一目見れば、わかるのに。
「なんとなくなら」
 ああ、こうするんだった。
「今のままがいいな」
 ブランコの乗り方を、身体が思い出していく。
「わたしは、ユカちゃんとライブを観に来たんだから」
 そういう約束だったんだから。ゆっくりと前後にブランコを漕いでいく。
「そう。……そう、だったね」
「イブサンローランのリップ、持ってないの?」
「持ってるよ。お気に入りなんだから」
 足を突っ張って、ブランコを止める。
「じゃあ、つけてよ」
 今のままつけても、唇だけが浮いてしまう。目元も、頬も、ちゃんとお化粧をしなければ、おかしなことになってしまうのもわかってる。彼もわかっていると思ったから、そう言った。
「……間に合うかな?」
 ライブまではまだ時間がある。物販でライブTシャツを買おうと決めていた。物販の列に並んでTシャツを買っていたら、ギリギリになってしまうかもしれない。それでも、お化粧を直す時間はたっぷりあった。
「それはユカちゃん次第だよ」
「俺が化粧してるあいだ、待っててくれる?」
 足を折り畳むとブランコはゆっくりと揺れた。
「待つよ」
 いくらでも。いくらだって待つ。
 誰かに何かを気づかせたり、誰かに「そうだよ」とか「違うよ」なんてもっともらしいことが言えるわけでもない。わたしにできることは限られている。その一つが待つこと。
 わたしには、待っていることしかできない。と思い込んでいたから、つらかった。無力で。人任せで。なんてちっぽけなことしかできないんだろうと悔しくてたまらなかった。だから思った。これ以上は無理だと、思ってしまった。
「君は……君って、すごいよ。ホントにすごい」
 わたしは、待っていることができる。と今は思えるようになった。それは待つことが、実は綱渡りみたいなもので、思っていたよりもずっと気力と根気が必要で、誰にでもできそうで、できないことだと知ったからだ。待たなくていい。「ユカちゃん」から離れているあいだ、待たなくていい時間を過ごしたから。やっとわかった。自分のことなのに。わたしもばかみたい。本当に。結局、どれだけ泣きそうになっても涙が出なかったのは、たぶん、そういうことだったんだ。
「どうして待ってられるの」
「あなたがちゃんと、帰ってきてくれる人だから」
「約束してなくても?」
 肩にかけていたトートバッグを背中側へ寄せ、窮屈そうに彼も鎖を掴む。持て余している足をつま先までピンと伸ばし、浮かす。髪がなびく。甘い香りがした。
「約束してなくても」
 いつもよりサラサラにお手入れしてある長い髪も。もったいなくてしょっちゅうは使えないと言ってたお気に入りの香水も。彼の中で、今日がどれほど重要な日だったかを教えてくれる。なんでファンデと控えめチークしかしてこなかったの。あー、ばかみたい。
「なんで笑うの」
「だっておかしいんだもん」
 二人して気合いの入った服を着て、小さな公園にある、子ども用のブランコを漕いでいる。こんなの、笑うしかない。
「今日のセトリ、どんなのかな」
「好きな曲あったらどうする? たとえば俺だったら――」
 好きな曲の名前を言い合う。
「あー、それやばい。わたしだったら――」
 どんどん、出てくる。これだけでライブができるぐらいたくさん。止まらない。
「ユカちゃん、それマイナーすぎるけど、良選択すぎ」
「君のだって相当だから」
「衣装とか、セットとか。何もかも楽しみすぎてやばい」
「ほんとそれ」
「俺、泣いちゃうかもしれない」
「わたしだって泣きまくると思う」
 顔を見合わせ、笑う。
「……まだ、たぶんまだ、ずっと先の話になると思うけどさ」
「うん」
「お金貯まったら、俺、家を出ようと思ってるんだ」
「そっか」
「そうしたらさ、俺も見せるよ。君みたいな素敵な部屋を、俺も見せたいから」
 学校の階段を軽やかに飛び越えていくように、彼はブランコから飛び降りる。
「それまで、待っててほしい」
 華麗な着地を見せ、振り返る。憑きものが落ちたみたいにすっきりした顔で、彼は子どもみたいに笑っていた。
「うん」と頷いたばかりなのに、わたしはまた「うん」と繰り返していた。驚きと嬉しさが込み上げる。あの日、自分の部屋を褒められたときと同じ。でも、違う。
「ありがとう、ユカちゃん。……やだな。今からもう、楽しみで、たまらないや」
「ハードル上げないでほしいんだけど」
 照れくさそうにはにかむ。「ユカちゃん」だとも、彼だとも思える不思議な表情に、この人のぜんぶを感じた。鎖を握り締めて堪える。そうでもしないと、言ってしまう。
 待っていると決めた。待っていられると知った。だからまだ、言葉にするのは間違っている。
「……ほら、ユカちゃん。お化粧直してこないと。ほんとに時間なくなっちゃうからね」
「いきなり急かす」
「セブンのトイレが一番近いんじゃない? 空いてるといいね」
 一向にブランコを降りる気のないわたしへ、
「まさかここで待ってるつもり?」
 ぎょっと目を丸めて言った。
「今日、そんなに寒くないし。意外とブランコが楽しくて」
「……あー、もう。わかった。じゃあ、待ってて。なる早で戻ってくるから」
「はーい」片手を挙げて答える。
 駆け足で去って行く後ろ姿を見送り、思い切り頭を振った。今日のメインはライブなんだから。切り替えて。ポケットからスマホとイヤホンを取り出す。両耳へイヤホンを押し込んでから、お気に入りの彼女の曲をまとめたプレイリストを開く。
 一番好きな曲が、流れ始める。極端な世界観の詩が歌われていく。勝者と敗者の世界がどうとか。そこに共感はない。勝者になれるかわからなくても、敗者になりたいとも、敗者でいたいとも思わない。それでもこの曲が一番に好きなのは、最後のサビが泣きそうになるぐらい突き刺さるからだ。
 これ以上の言葉はない。
 そして、それを口にするのは今じゃない。
 なくしたものもあれば、手に入れたものだってある。これ以上の言葉がなくても、さっきみたいに、わたしが伝えられることだってあるかもしれない。何が始まりで、何が終わりなのか。それがまだわからない今はまだ――これ以上、話すのはやめておくよ。

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