継ぎ接ぎの
ショパンを降らせた


 東京というところは、つくづくおかしなところだ。どこを向いても人がいる。人が集まるだけの何かが沢山あるとも、人がいないといられない何かがあるとも思える。とにかく人が多い。地図ではあんなにも小さな形をしているのに、日本の総人口一割を飲み込んでいる。納得した。だからか。そりゃあ、どこを向いても人がいるわけだ。俺の何気ない疑問に、明確な数字で答えを返してくれたのは「パクらないでねえ」と、唇を少し尖らせて笑う藍沢さんだった。本気で口にしていないのは、声の重さで伝わる。それでもあえて口に出すところに、藍沢さんの人柄が覗く。鋭利。どこで聞いたのかうろ覚えだが、彼女の吐く言葉はとても鋭利なものだった。「ハハ、まさか」藍沢さんの鋭さに気圧され、笑いも乾いてしまう。「教えてくれてありがとね」と続ければ、「いいのよお」と返される。調べれば秒でわかることだもの。間延びさせたところで、鋭利なものはやはり、鋭利なんだな。
 この大学へ入学して出された課題はまだ二つ。一つ目は自画像。受験のときに出された課題と同じものだ。彼らが何を確かめようとしているのか、ある程度の察しはついたが、意地の悪いことだ。数多の学生を見てきたその目は、曇ることがあっても捉えられている。製作も講評も滞りなく、流れるように終わった。肩慣らし。様子見。どちらにしても呆気ないものだった。八雲が吸いに吸った煙草の吸い殻を捨てるときに似ている。それなりの金を使って喉と肺を汚すくせに、ゴミ箱へ捨てるときは一瞬だ。後に残るものは、灰がこびりついた空っぽの灰皿だけ。そしてまた、山のように吸い殻は溜まっていく。吸い殻に火が燃え移り、臭い煙を漂わせるようになってからまた、俺は灰皿を空っぽにするのだろう。お前もう、家くんな。そう言っても八雲はまた、気がついたら俺の家の床に転がっているのだろう。
 二つ目に出された課題、東京の風景について。これは今まさに取りかかっている最中だった。
「せっかく大学生になったのに、あんまりやってることは変わらないのねえ」
 細長い煙草を唇から抜き、は線を描くように煙を吐く。綺麗に向きを揃えて灰皿に「並ぶ」吸い殻を見下ろす。どれもマッチ棒のように先端が赤く色づいている。八雲も吸う方だと思うが、も大概だ。無作為に積み上げられるより、整然と積み並べられている方がずっとえげつない。そういえばこの灰皿が空っぽになっているところを、俺はまだ見たことがない。
「東京の風景ねえ」
 天井でくるくると回るプロペラを仰ぎ、「ゲイジュツのことはわからないけど」意図的に作られたようなスペースに灰を落とし、口元に煙草を持って行く。
「センセーたちの性格があんまり良くなさそうだなってことはわかるよ」
 ニヤリと赤い唇を歪ませる。
「どうしてそう思う?」
「だって東京の、風景だよ。そもそも東京ってどこよ。23区。26市。群があって、島もある。街だけじゃない。山もある。海もある。そんな場所の風景なんて、範囲が広すぎるでしょ」
「他にも理由がありそうだな」
「あるよ」
 一吸いし、煙と共に吐き出す。
「範囲の広さに、発表までの時間が見合ってない。完成できる人、できない人がいるとわかって出してるところが、一番性格悪そうだなって思った」
「濁さないんだな」
「嫌いだもん、そういうの」
 知ってるでしょう。煙草を灰皿に押しつける手つきは乱暴なのに、吸い殻を並べるときは丁寧だった。意識しているようには見えないから、もはや癖に近いものなんだろう。髪型や化粧は散々と変貌していったが、これだけは初めて会ったときから変わらない。
 俺がと出会ったのは、上京してきてすぐの、今とは真逆、芯から凍りつく冬の夜。その頃の俺の髪はまだ、左右揃った長さをしていた。
「かっこいいね、お兄さん」
 予備校帰りの道で、に声をかけられた。女の人から声をかけられたのも、「かっこいいね」と言われたのも、人生初の出来事だった。一生無縁だとすら思っていた。だから警戒が先走った。あまり心象の良い態度ではなかったと自分でも思うのに、はヘラヘラと笑いながら「あー、違うの」と片手を振った。「カットモデルしてほしくてさ」そう言って、ショップカードを差し出した。その頃のはまだ、金髪にショッキングピンクを混ぜていて、冬に着るような服ではない、寒空に生足を晒してカットモデルを探しているような人だった。
「気が向いたら来てよ。タダでサッパリさせてあげるから」
 ショップカードを押しつけられ、さっさとその場を立ち去ろうとする俺を、は引き留めようとはしなかった。
 タダより怖いものはない。何かと耳にする文句が頭をよぎりはしたが、鼻で笑って押しつけられたショップカードを捨てられるほどお金に余裕があるわけでもなかった。節約できるところは節約したい。放っておいたら勝手に伸びてくる髪に、お金はかけたくない。が、伸び続ける髪はどうにも鬱陶しくなる一方だった。と出会ったその年、俺はまた大学生になることができなかった。隅っこが汚れ、折れ曲がったショップカードを手に、懲りもせず通う予備校をさぼってその店へ足を運んだ。時間が経ちすぎている。覚えてるわけない。渋谷の美容室なんて「お高い」に違いないだろうが、たまには奮発したっていいだろう。出てしまった結果を未だにどこかで引きずり続けているぐらいなら、いっそ――知り合いに合っても気がつかれないほど変わってしまいたかった。
「お、ついに来たね」
 いらっしゃいませーと気の抜けるような出迎えを受ける俺を、モスグリーンの髪をくるくるにうねらせたは誰よりも早く、見つけてくれたのだ。オーナーらしき男に声をかけ、バインダーを手にやってくる。
「かなり時間経ってますけど」
「大丈夫。お金取ったりしないから。ここに名前と住所書いてね。あと電話番号も。他のところはテキトーでいいから」
 次々に項目へ丸をつけていく。均等に、綺麗な丸を描く人だと思った。「それにしても伸びたねえ」と常連客にでも言うように、は俺の髪を摘まむ。アンタも随分、髪色が変わってるよ。丸がついた項目を埋めている途中、があっと声を上げた。
「鉢呂くんって北海道の人?」
「いえ、新潟です」
「そっか。新潟にもいるんだね、鉢呂くんって。私、北海道出身だからさ、同郷かと思った」
 言葉通り、丸がついていないところはテキトーに書く。髪の悩みなんて、伸び続けるところ以外、思いつかなかった。書き終わったバインダーをへ渡すと、「じゃあこっちね」と店の奥へと促された。いきなりシャンプー台へ連れて行かれた俺には戸惑いしかなかった。カットモデルとは、ここまでタダでやってくれるものなのか。突っ立って動けずにいる俺の腕を引き、「ほら、寝て」と客相手とは思えない口調で言った。
 紙を顔にのせられ、噴き出す水の音を聞いた。「来てくれてよかったよ」じんわりと温かいシャワーが頭に当たる。「ちょうどいいでしょ」まるで答えがわかっているように、そう言った。
 髪を洗い終わり、鏡の前に通される。
「一応聞くけど、リクエストとかある?」
「特には。サッパリしたのであれば何でも」
 オーケー。椅子の高さを調節し、腰のポケットからハサミを取り出した。安心して。は容赦なく髪を切り落としていった。「さらにかっこよくしてあげる」と。
 ペラペラとよく喋るのかと思えば、そうでもない。唇を閉じて小刻みにハサミを使う。むしろ俺の方が沈黙に耐えきれなくなっていた。「いつからこっちに?」「十八のとき」「北海道、行ったことないんですけどオススメなとこってあります?」「ない。何もないから」端的な言葉とは裏腹に、鏡に映るの唇は弧を描いていた。
 ドライヤーの風を受ける頃には、頭の軽さがはっきりとわかるようになっていた。自分でも驚いた。がバリカンを手にしたあたりで、覚悟は決めていたが、構えていたほどの不安はなかった。それどころか、想像すらしたこのない、別人のように変貌した姿を目の当たりにしても、これはこれでアリなんじゃないかと思い始めていた。
さん、相当上手いでしょ」
「やっぱり? 私の凄さ、素人にもわかっちゃうかー」
 ワックスを手にしたの舌は、再びよく回り出した。
「うん、うん。いいね。前よりもっとかっこよくなった」
「かっこよくなったかはわかりませんが、気に入りました。ありがとうございます」
 セットの手順を伝えながら、俺に見えるよう、ゆっくりと髪を仕上げていく。片側に残った髪を握られるたび、心臓が跳ねた。「はい、終了。お疲れ様でした」タオルでワックスを拭き取り、俺の両肩に手を置いた。
「来てくれてよかったよ、鉢呂くん」
「さっきも言ってましたね。そんなにカットモデル不足だったんですか?」
 カットモデル不足。何を言っているか、自分でもよくわからない。「何それ」とはケラケラ笑いながら、身じろぐほどの強い力で肩を揉む。「あ、ごめんね。ちょっと強かったかな」どこからそんな強い力が生まれるのか、理解が追いつかなかった。
「私、もうすぐこの店辞めるからさ」
「え、辞めちゃうんですか」
「独立するの」
 色々あってね。がそう言った途端、一瞬だけ、店内の雰囲気がピタリと止まる。他の客は気がついていないようだった。それに気づいているのか、いないのか、は「だから、本当によかったよ」とちょうどいい力加減で指を食い込ませる。
 独立する。一人で店を持つ。なんてすごいことなのだろう。俺より年上でも、そこまで離れているわけではない。なのに、は独立するのだ。俺はまだ、大学生にすらなれていない。この道がどこに続いているのかも、わからないのに、背後に立つ彼女は自分の技一つで生計を立てようとしている。
 すごいですね。当たり障りのない言葉を口にするはずだった。
「そっち、通ってもいいですか」
 気がついたら、俺はそう尋ねていたのだ。淀みなく押し込んでいた指を止め、「いいよ」は絞り出すような声で頷いた。
 その年の夏、不動産やどこぞの怪しい事務所のチラシに混じって、一枚のハガキが届いた。鉢呂健二様。すらりとした筆致で書かれた名前と同じく、「そろそろ切りどきかな?」とハガキには記されていた。印刷されたオープン日よりも早くに送られてきたそれに、俺は彼女の計算高さに笑ってしまった。
「どうしたの、健二くん」
 黒髪を緩く結んだが怪訝そうに言った。単なる、思い出し笑い。素直にそう伝えようと思ったが、のことを考えていたと本人に告げるのは気が引けた。
「いや、ここはの好きなもので囲まれてるなって」
 客のためにあるソファに腰かけ、インテリアとして置いているつもりもないスタンド灰皿に吸い殻を並べる。店内にかかっている曲は、彼女が愛してやまない「聖子ちゃん」オンリー。もっとも、これはこの店に限ったことではないのだが。
「ピンクのモーツァルトだ」
 一度も覚えようと思ったつもりはないのに、出だしだけで曲名がわかってしまう。が一番好きな曲だということも、今の俺は知っている。
「それで?」
「何が?」
「何がって。東京の風景。自分から言い出したんでしょ」
「そうだった」
 話題に出したのは俺だ。
「人と人とがせめぎ合ってる、そんなイメージを出そうかなって考えてる」
 東京の風景と聞いてぱっと思いついたのが、ボードゲームの盤面だった。土地の狭さに比べ、人は集まりすぎている。そういう場所で起きるのは、取り合いだ。俺も、も、住み慣れた土地を離れてまで、わざわざ東京という場所に身を置いている。そうまでして得たいものがここにあるのか。まだその答えまで見つけられずにいる。けれど「ここにある」と思ったから、俺たちは今、ここにいるのだろう。
「やっぱりゲイジュツってわかんないわ」
「ちなみには、東京の風景って聞いて何が思い浮かんだ?」
「夜景かな。ここは夜でも色んなところに灯りがついてるから」
 組んでいた足を大仰に解き、「でも、色々ありすぎてまとまらない」とパンプスの踵で床を鳴らす。
「確かに。は色々あったよな」
「そうよ。付き合ってた彼氏と一緒に道外に来たのに別の女に取られるわ、友達に紹介された男はクズだわ、挙げ句の果てにオーナーからは三ハラされるわ……」
 散々よ。思い切り顔をしかめ、苦々しく吐き捨てる。
「あんまそれ、人に言わない方がいいよ。引かれるから」
「健二くんにしか言ってない」
「こないだ酔っ払ってたとき、八雲に言って、大笑いされてたね」
 俺をしばらく睨み、はため息を吐いた。
「今度来たら丸刈りにしてやる」
 そう言って立ち上がった。ようやくだ。やる気を出してくれたらしいは俺の前に佇み、くるりと椅子を半回転させる。
「それはそれで見てみたい。アイツのことだから、丸刈りにされてもダメージなさそうだけどな」
「……想像つく」
 後ろから頭を掴まれ、顔を上げさせられた。間近で目が合う。椅子を僅かに動かし、片手での後ろ頭を支え、唇を重ねる。何度キスしても、あの煙草ほどくっきりと俺の唇に色がついたことはない。の手が首筋を撫でるせいで、口を開かせてしまいそうになる。その前には、「ここでは嫌」と触れたまま唇を動かした。
 曖昧に笑いながら、離れていくの顔を眺める。「一応聞くけど」先に続く言葉はもう、わかっている。「好きにして」信頼を寄せる手を握って返したら、鏡へ向き直された。軽やかに跳ねる歌声が響き渡っている。目を瞑った。
「じゃ、いつも通り」
 伸びて不揃いになった髪を撫でられ、
「かっこよくしてあげるね」
 カットクロスをかけられた。ハサミを入れられる。髪が切り落とされていく音に耳を傾け、作品の構想を練る。盤面――チェス盤のようなものがいいだろう。情報量が限られるし、コントラストもつく。正方形という、形もいい。継ぎ接ぎなのにまとまりが生まれる。
 、俺たちが出会った場所は、おかしなところだよ。生まれも育ちも違う人で溢れてるんだ。乱雑なようでいて、整頓されてるんだよ。
 考えれば考えるほど面白い。運が良かった。今回の課題は、すんなりと進められそうだ。
 動かないで、と鋭く囁かれ、自分の肩が揺れていたのだと気がついた。
 
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