お告げ


 お告げがあった。そう髭切に告げられ、はぽかんと口を開けてしまった。自室で二人、向き合って昼食を食べている途中だった。「ああ、そうそう」と髭切特有の軽やかな常套句は、大事なことにも、そうでないことにも繋がっていく。大抵は、後者だ。そよ風のように吹き込み、流れていく。突風となって襲ってくることなど、早々ありはしない。
 だから、は大して心の準備もしていなかった。
「お米、落ちちゃうよ」
 箸で摘まんだお米は、髭切の指摘通り、今にも落ちてしまいそうにばらけ出していた。だが、にしてみればお米どころか、箸もお椀も手から落としてしまいそうになるほどの動揺が走っていたのである。
「ねえ、お告げって? スピリチュアルすぎてちょっと、ついていけないんだけど」
「すぴりちゅある? ふふ。また僕の知らない言葉だね」
 至って、髭切はいつも通りの調子だった。「お告げ」があったと言う前も、後も変わりなく。はまだ、ついて行けずにいる。
「お告げって例えばその、不吉なイメージがこう」
 身体を使って表現しようとしたのだろう。両の手に持った物の存在を忘れた一瞬、目にもとまらぬ速さで「はいはい」と髭切が慣れた手つきでの両手をがしりと捕まえる。
「お告げに対して、君は随分と偏ったイメージがあるんだね」
「普通に生きてて、まず聞かないから。お告げとか。しかもたまに聞いても、あんまり良くないときにしか聞いたことないんだもの」
 怪しい宗教の謳い文句とか、天変地異の前触れだとか。ぼそぼそとは漏らす。もともと非科学的なことや、超常的なことに対して、は良い感情を持ち合わせていなかった。
「ああ、うん。そうだ。君はそういう子だった」
「馬鹿にしてるでしょ」
「そんなことないったら。むしろ心から慕うに値するところだよ、君のそういう、奇妙な価値観って」
 刀に宿った魂を呼び起こし、人の姿をした刀剣男子として顕現させているのは、非科学や超常を訝しむ自身である。自ら普通とは言い難い超常を起こしておきながら、「非科学や超常を訝しむ」というの矛盾は、あまりにも人らしいものだ。横暴で、愛らしい。故に、髭切は彼女を心から信じ、慕っている。
「あまり良い気持ちはしないよ」
「どうして? 褒めてるのに。君の良い意味で周りを見ていないところとか、僕はとても良いと思ってるんだよ」
「……馬鹿にしてるよね?」
 髭切が弁解すればするほど、の眉は真中に寄っていく。お椀と箸を流れるように取り上げながら、「要するに君がたまらなくかわいらしいということだよ」と弁解の先を結ぶ。多少、強引にも思える。だが、は眉を元に戻す。ため息と共に肩の力を抜き、「はいはい」と投げやりに頷いた。結んでしまったものを後からほどくつもりなどないことなど、よくよく理解していた。「髭切はそういう刀だよね」彼の言い様真似て呟く。
「お告げなんて、大それたこと言って。かまってちゃんなの?」
「そりゃあね。僕はいつでも、君に構ってほしいとは思っているよ」
「……充分、構ってるじゃない」
 まだ、足りないのか。不服そうに声を低くし、は視線を逸らす。徐々に髪の隙間から見える耳殻が染まっているのを、髭切は見逃してはいなかった。「そうだね」と笑みを漏らし、食べかけのお椀に箸を添え、丁寧にの膳を置いた。こうして他愛ない言の葉を交わしているだけで、今は満たされていると感じる。けれど、触れて満たされるときもあれば、視界に在るだけで満たされるときもある。この飢えを満たす手段は常にばらばらだった。
 食べるだけで満たされる食事のように、整然とした筋道があれば自分も、あるいはも、もっと気を楽にしていられるのだろう。自分の言動にが戸惑いを覚えているのを、知らぬ髭切ではなかった。
「僕は君に」
 上着の結び目に触れ、髭切は瞳を閉じた。
「与えられるばかりでいる」
 満たされれば満たされるほどに、飢えは日増しに増えていく一方だ。厄介なことである。魂だとか、心だとか、それすらも曖昧なところ、身体の何処かより求め、欲する。空腹を訴えるように鳴くわけでもなく、ただ静かに、突拍子もなく、嵐のような激しさで沸き起こる。何が欠けているのかは今もまだ、髭切はわからない。わかっていることは一つ。何で満たされるのか、ということだけだった。
「馬鹿ね」
 ぴしゃりと切り捨てられ、瞼が割れ開かれる。先ほどとは比べものにならないほど濃い皺を眉間に作り、は「やっぱり馬鹿にしてるんじゃない」と唇を尖らせていた。
「与える物が多いのは当然じゃないの。私は主なのよ。与えてなんぼなの。……でも、他の刀たちより髭切には少しだけ多く、与えてもらってる」
 それだけだよ。耳を染めながら、味噌汁の椀を両手で包んで口元へ持って行った。
「……ねえ、。隣に行ってもいいかい?」
 目を丸くしたまま、髭切は答えも待たずに四つん這いになってへ近づいていく。ぶっと小さな音を立てて、は味噌汁を噴く様を横から眺める。無言で背を向けられてしまった。
「何もしないよ」
「何かされても困るんだけど」
が困ることはしないよ」
 無防備な背中だ。そう思ったときにはもう、髭切の身体は腰を浮かしたまま、背後からを包み込んでいた。肩越しに見下ろしたの手元には、危うく味噌汁を波立たせている椀がある。少しずつ、薄茶色の波が収まっていくのを見守った。
「あれ? 困ったりしていない?」
「……もう、慣れた。驚きはするけど、困ったりはしないよ」
 味噌汁の椀をできるだけ遠くに置き、は「行儀が悪いとは思うけどね」と髭切に身を預ける。食事の膳を余所に、縁側へ身体を向けている。確かにこれは行儀が悪い。髭切は両腕に力を込めながら、「こういう日もあるよ」そう漏らす。
 満たされている、と髭切は感じる。しかし、すぐに飢えてしまうのだろう。せめて満腹感ほどには長く続いて欲しいと願うのに、身体の何処かとも知れぬところから沸き起こる衝動に突き動かされるに違いない。――まるで穴の空いた桶だ。満たされても、その穴から漏れ出てしまう。
 髭切はようやく、合点がいった。
「ああ、そうか」
 欠けているのではなく、刺さっているのだ。
「どうしたの?」
 他の誰でも、何でもない。声をかけてきたこそが、自分に刺さる物そのものなのだと思い知る。彼女がいれば穴は埋まり、消えれば穴となる。たった「それだけのこと」だったのだ。
「どうもこうも……まったく。君はとんだ主だなあって。それは僕らの本分なのに。立つ瀬がなくなってしまうよ」
 ゆっくりと腰を下ろし、髭切は両足で挟み込むようにを囲う。
「だから、お告げがあったのかもしれないね」
 首筋に顔を埋めて髭切は呟く。
「お告げ。お告げね」
 咀嚼するようには繰り返す。噛み砕き、飲み込んでみようとしているだけ、初めて口に出したときよりかはマシなのかもしれない。
「どう? まだ天変地異の前触れのまま?」
「どうかな。ほんとのところ言うと、どっちでも、何でもいいんだ」
「君、飽きたんでしょ?」
 は髭切の髪を手で梳きながら、「それもあるけど」と、控えめに笑う。
「何が起きても何も変わらない気がした。私は私のままだし、あなたはあなたのまま。何も変わらない」
 髭切もを真似て笑う。
「これでも真面目に話してるんだけど」
「うん。ごめん。僕だって真面目に聞いているよ」
「なんで笑うの」
「いや、なんというか……そう。おかしくて」
 腕に力が入ってしまう。抱えているのは自分。けれど、身構えていたのもまた、自分の方だった。そうと気がつかされた髭切は、もはや堪えきれなくなった笑いを口から素直に漏らすだけだった。
「……結局、お告げって何? ご飯冷めちゃうから早く話して」
 大人しく抱え込まれているくせに、の意識はもう、盆の上に置かれた食事たちに向けられてしまった。そうさせたのは自分だとは理解していても、わがままなことばかりが浮かぶ。もう少し構ってくれたらいいのに。一時でも長く、自分のことで頭がいっぱいであってくれたらいいのに。――取り留めもない。幼子のようなわがままで、髭切が満たされていくのを、腕の中にいるは知らないのだろう。
「僕の想いも、魂も、すべてが極まる前触れだってことだよ」
「……あら、ついに」
「そう。だから、誰よりもまず、君に話しておきたかったんだ。けれど君ったら、少しも動じてくれないんだもの」
「残念でした。髭切の言葉遊びにはもう、慣れっ子だもの」
 物より人の方が変化を望み、恐れるものだと思っていた。千年も人の傍らに在った刀だからこそ、辿り着いた「人への理解」のはずだった。
「……千年も刀やってるけど、君の刀でいるのが一番大変で、楽しいよ」
 人より物の方が変化を恐れていたなど、とんだ笑い話もあったものだ。


201114→210627