星を紡ぐ夜


 特別な日は厄介だ。特別なことへ身構えてしまう。する側はもちろん、される側も。いつも通りを気取ろうとすればするほど、いつも通りからかけ離れていく。
 今日を迎えてなお、今日について考えてしまうのをやめられない。平日ならどんなに良かったか。カレンダーが目に入るたび、端っこに寄せられた数字がそこではないどこかへ動いてくれないかと願った。手の施しようがない日曜日への手立てが思いつかないまま、当日を迎えてしまった。先ほどから右手に持った携帯電話はひっきりなしに震え続けている。返信する暇がない。最初に届いたメールの返事は書きかけのままだ。一時間もすれば落ち着くだろう。
 ここまでくると他人事に思えてくる。これまで十数回と同じ日付に遭遇しているが、そのたびに自分事ではなくなることが増えていった。慣れられるはずもない。自分はずっと「する側」の人間だったのだ。「される側」の人間らしい心持ちも、振る舞いにも縁がない。
 携帯電話が大人しくなり、書きかけのメールへ手をつけていく。さあ、やろうと意気込んではみたものの、特別な日に似つかわしくない平凡な言葉の羅列ばかり。「ありがとうございます」と、「嬉しいです」で早々に弾切れを起こしてしまった。「覚えていてくれたんですか」も浮かんだが、口で言うならまだしも、文字だと卑屈さの方が目立ちそうですぐにかき消した。日頃から文字には触れているのに、肝心なときに吐き出せる文字がない。ベッドに寝転び、ため息を吐いた。ちらりと部屋の時計を確認する。もう何度目だと、そんな自分に呆れてしまう気持ちの方がずっと強かった。図々しさにも嫌気がさす。
 真面目な顔で「する側」の人間だと自負しておきながら、「される側」としての期待をしてしまう。そこに至るまでいくつもの工程があることを都合良く忘れ、受信ボックスに彼女の名前が現れるのを待っている自分がいる。
 お互いの特別な日に触れたのは、ただの一度きり。それも、かなり前の話になる。週に一、二度。図書室で二、三時間過ごすだけの間柄だ。試合が近くなれば、まったく顔を合わせない週もあった。委員会が同じだけの同輩への関心なんて、たかが知れている。彼女が自分のように、何もかもを覚えているはずがない。自分の方が、おかしいのだ。
 という女の子が特別なのは、自分にとってのみの話である。本屋の一番目立つところに置いてある本しか手に取らず、文字より写真の方が好き。図書委員になったのは「流れ」で、今ではそれなりに楽しく過ごせている。三年になったら、蔵書特集コーナーで敬愛してやまない杉本博司の作品集を並べたいと思っていることや、自分も彼と同じ道を選ぼうと考えていること。けれど、薄もやまみれの先行きを選びきれず、人前でカメラを持てずにいること。――思い出せば、きりがない。
 彼女と過ごす時間は、星を見るときと似ていた。じっくりと眺めていると、星と星とが繋がり、形が見えてくる。決して強い輝きとは言えないのに、形が見えるとそこから目が離せなくなる。だから彼女は特別な女の子なのだ。
「二月について考える日だね」
 今日の日付を、彼女はそう称した。「一月の終わり」でも、「最後の日」でもない。語呂合わせにするわけでも、偉業を成し遂げた先駆者たちの名前を言うわけでもなかった。
「黒子くんらしい日だね」
 白黒の水平線ばかり続くページを捲りながら、そう言った彼女の姿が瞼の裏に蘇る。「さんは?」と「流れ」で尋ねたとき、彼女の特別な日はすでに過ぎてしまったのだと知った。「さんも、らしいと思いますよ」確か、自分はそう答えた。空と海との境が鮮明であったり、曖昧であったりする。彼女によって捲られていく写真たちとぴたりと当てはまるような、日付だったからだ。
 文字には強くても、写真には疎い。それこそピントがズレて、合わないままでいる。彼女の崇拝する姿がはっきりすればするほど、崇拝の矛先についてはぼやけていった。ただ、彼女と出会わなければ本屋にある写真集のコーナーへ足を向けることも、杉本博司の存在を知ることもなかったのだろうと思う。
 届いた分の返事を打ち終わり、携帯電話を手放した。一時を過ぎてしまっている。送信するのは、起きてからの方がいい。結局、彼女の名前が受信ボックスに並ぶことはなかった。今日はまだ始まったばかりなのに。たっぷりと時間は残っているのに、せめぎ合う緊張の中、あと数秒で試合が終わる、身に覚えのある焦燥に苛まれる。
 部屋の灯りを消し、ベッドに戻る。今度は布団の中に足を入れた。足先を擦り合わせる。一瞬で冷えてしまった。暖を取り戻すのは骨が折れる。
 目を開いても、閉じても真っ暗だ。暗い。ほとほと嫌になるのは、そんな真っ暗闇でも携帯電話の形がぼんやりと浮かぶことだ。まだ、何かを期待している。冷たくなったり、熱くなったり。忙しない限りだ。瞼に力を込めた。
 不意にベッドが震える。あっさりと瞼が開く。何が起きたのか、一瞬、理解ができなかった。ベッドから飛び起き、机に向かう。携帯電話はいつもそこに置いていた。何かに蹴躓き、つまさきの痛みで冷静になる。震えたのは、枕元だ。今日に限っては、いつもの場所にそれはない。手探りで枕元に数度触れ、目当てのものを探し当てる。
 新着メールが一通、また一通。十二時を迎えたときと同じように数度震えた。両手で携帯電話のボタンを押していく。受信ボックスは彼女の名前を連ねていた。
 4通続きます、という最初のタイトル以外は無題だった。
 最後に届いたメールを開き、息を呑んだ。文字はない。写真が一枚、あるだけだ。次も、その次も。同じ場所から取られた写真だが、それぞれに違いがある。自分にもそれがわかるほど、見覚えのある場所だったからだ。
 最後に、最初に届いたメールを開く。
「夜遅くにごめんなさい。お誕生日おめでとう。黒子くんらしい日から、黒子くんにとって良い一年になることを祈っています」
 文面を口にしたのは自分だ。なのに、彼女の声が身体の中で響いていた。心臓の音が初めてうるさいと感じた。
 一行空けて、記された文と写真が唇に力を込めさせた。

 黒子くんと出会って、私の世界は変わりました。

 同じ場所、同じ構図。それまでの三枚と明確に違うのは、練習着を着て、やけに真剣な顔をした自分が仲間の姿に紛れて映り込んでいたことだ。
 まじまじと自分を見る機会は、幼い頃に比べて格段に減っていた。何を見ているのか。自分のことなのに、まるでわからない横顔に対して、気恥ずかしさよりも何よりも、頭が彼女でいっぱいになった。誰よりもはっきりと、しっかりと自分にピントを合わせて撮られた写真は、携帯電話に備え付けられた機能では無理だ。――次の写真も、その次も。
 自分が誰かの影響を受けるのは、わかる。
 誰かが自分の影響を受けるのは、わからない。
 ずっとそう思っていた。そうだと信じて疑わなかった。だから、「祝われること」が他人事に思えた。こんなにも「祝ってもらえる」だけのことをしてきた気がしなかった。
 だが、彼女の言葉と写真は、どんな表現よりもまっすぐに「そんなことないよ」と告げる。視界がぼやけていく。
 先に彼女の形に結ばれていて、見えなくなっていた。
「優勝おめでとう」
 一年の冬休み明けに顔を合わせたとき。
「惜しかったね」
 二年の夏休み明けに顔を合わせたとき。
 彼女は当たり前のように、自分に関わる星を輝かせてくれていた。
 携帯の画面を撫で、額に押し当てた。唇には先ほど以上の力が込められていた。彼女への想いが溢れて、言葉にならなかった。これまでの時間を肯定するような写真たちに、生まれて初めての感動を覚えた。
 暖房でかき消された冬の欠片を吸い込み、今この部屋で一番の熱を感じる息を吐いた。ゆっくりと携帯電話のボタンを押し、耳へ寄せる。数度の呼吸で息を整える。
 素っ頓狂な彼女の声に、笑みが漏れる。
「夜分遅くに、すみません」
 湿った喉を渇かして、せめてこの声の震えだけは届かなければいいと願った。


210131