小話の置き場に困った結果、
懐かしのweb拍手(のようなもの)
今回、作ってみました。
(連打はできません……)

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送っていただいたお返事は
mur(res)にていたします。



  Principio



鮎川 龍二
 何をしてもいい。そう言われても、喜べなくなった。どうしてなのか。わからない。わかりたくなかった。雪崩かかるようにして、当たり前のように前を向いている連中に嫌気ではなく、まぶしさを覚えるようになった。綺麗なものだけが眩しい世界にいたかった。わかりたくなんてなかった。誰に何を言われたところで気にしない。内から響く声に耳を傾ければ、外の声は途端に小さくなったからだ。だから、わからなくなった。どうしたらいいのか。裏切られるなんて、思っていなかった。内から響く声は言う。「仕方のないこと」「充分楽しんだよね」「あがいたところで逃げられない」――おしゃべり。少しは黙っていられないの。言うのも、言われるのも、全部聞き終え覚えがある声をしていた。
 ああ、いやだ。いやだ。こんなの、あんまりだ。自分が一番、なりたくなかったものになろうとしている。そんな皮肉を押しつけてくるなんて。
「あんまりだよ、神様」
 電気もついていない教室には、誰もいない。それでも全部、見える。何も書かれていない黒板、まっすぐだったり斜めだったりしていても均等に並んだ机と椅子。朝礼は数時間後、制服は自分に似合う方を選んで、座りたいところに座る。スカートを履いて、クラスメイトの机に座って、校庭で朝練の準備をする運動部の小さな声に耳を澄ます。それでも窒息しそうな空気の薄さは、ちっとも変わってくれない。
「せっかく早起きしたのに」
 満足に眠れない日はこれまでにもあった。考えることが増えるにつれ、少しずつその日は増えていった。明るくなっていく空に「ああ、また」と思う。昨日が続いてしまったことに泣きそうになる明け方を何回、あと何回、繰り返せば懲りるのだろう。懲りて、疲れて、眠ってしまえるのだろうか。
「ユカ?」
 名前のように呼んでくれる。「ちゃん」も「さん」も、無駄なこじつけもしないで、馴れ馴れしく呼び捨てる。俺をそう呼ぶ人は、このクラスにたった一人しかいないのだ。
「あー、びっくりした。扉開いてるんだもん。誰の仕業かと思った」
「仕業って。学校来るの、いつもこんなに早いの?」
「まあね。朝練あるし。ユカはなんで? 美術部にも朝練とかあるの?」
 彼女は自分の席に向かい、机に鞄を下ろす。
「そんなのないよ。今日はなんとなく。そういう日もあるでしょ?」
「ユカにあるなら、あるんじゃない」
 眠たそうにあくびをして、彼女は「なんか不思議」と俺を眺める。「何が?」両足を組み替え、頬杖をつく。自分が思っていたよりも、不機嫌な声が出た。
「いつもの景色なのに。ユカがいるだけで違って見える」
「……ここにいたらおかしいってこと?」
「おかしいけど、おかしくない?」
「なにそれ」
「だっていつも、この時間にユカはいないでしょ。でもここにユカがいることはおかしくないし……そんな深く考えてないから、さらっと流してよ」
「……ま、言いたいことはなんとなく、わかるけどね」
 他のクラスメイトの姿はなく、自分と彼女だけの見慣れた教室は確かに、いつもと違って見える。変な方向に跳ねた毛先や、長さの違うスカーフの先っぽ。まじまじと彼女だけを見つめる。そういう時間はありそうで、なかった。
「もっと身なりに気を回したら、今より少しはマシに見えるのに」
「もー、ほっといてよ。どうせこれから着替えちゃうし。あとでいいの、あとで」
「あっそ。ていうか、こんなのんびりしてていいの?」
「ゲッ! やばっ!」
 座ろうとして引いた椅子を慌てて押し込み、鞄の中をまさぐる。教科書やノートをごっそり出したかと思えば、忙しなく鞄を肩にかける。
「ねえ、ユカ! 今日の放課後、部活なかったら一緒に帰ろうよ」
「トートツすぎ。部活ないけど。なんで?」
「身なりに気を回せって言うなら、私に似合うヤツ見つけるの手伝ってよ」
 鞄を扉にぶつけても、彼女の勢いは殺されず、颯爽と教室を後にしていった。不満を言うタイミングも、断る気力も持って行かれた。重たい身体も、憂鬱な影も何もかもをすべて攫って、彼女は持って行ってしまったのだ。
 走る彼女の姿を想像し、笑みが漏れる。
「ほんと慌ただしいというか、何というか」
 日の差し込む廊下をありのままの姿で駆けていく彼女は、きっと何よりも綺麗だ。眩しくて目を奪われるのがわかっているから、俺は下を向いてしまうのだろう。
 そんな俺の顔を上げさせるのもまた、彼女。「ユカ」と当たり前のように名を呼んで、ばかなことを口にして、そうやって彼女は昨日の俺を攫っていく。
「気が抜けちゃうよ、ほんと」
 漏らした笑みの数だけ、気持ちも軽くなった気がした。


210628
Blue period
Wordpallet,@Wisteria_Saki


  "始まり" 



1.プリンシピオ 
「走る」「明け方」「神様」

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  Alb iarnă



夏油 傑
 彼女の呪いは骨をも溶かす香りがした。軽やかさとも、まろやかさともかけ離れている。イメージの中では、赤く熱された有刺鉄線に絡まれたりだとか、躊躇なくドリルで穿られたりだとか、あまりにも突飛で、実感のない痛みを伴うものばかりだった。毒に近い。だが、毒よりも過酷で野蛮なのだ。目の前にちらつく死は痛みに揺らぎ、揺らいだ果てには刹那の快楽が脳裏をよぎる。痛みに耐えかねた末の幻だと知る頃には、おそらく、すべてが終わっているのだろうと思った。
「ものすごい言われようですね」
 掻い摘まんで彼女に彼女自身のことを伝えた。ティースプーンをくるりと一回転。透き通った紅茶を濁らせる。陶器とスプーンが繊細な悲鳴を上げた。
「呪いを食べるあなたが味ではなく、香りで例えてくれるなんて。ちょっと面白いですね」
 そう言って、ミルクティーを口にする。
「おかしいですか」
 楽しそうに彼女が肩を揺らすから、つい、自分までもが楽しそうに尋ねてしまう。
「味は香りありき、と言いますから。あながち的外れな切り口ではない気がします。それに香りとは直接、ここに語りかけてくる原初の感覚ですもの」
 こめかみを数度突き、「ここ」を示す。
「率直なご意見をどうもありがとう、夏油くん」
 頭の良い彼女は掴めそうで、掴めないことを口にする。こうして向かい合っていてなお、物静かな印象を受ける。けれど、彼女の唇はよく動き、彼女の舌はよく回る。お喋りが好きな人だ。かしましさはまるでない。今だって、自分よりもよほど彼女の方が口数が多いというのに、喋っているのは自分ばかりであるようにさえ思えてくる。
「先輩と話していると、本当に楽しいです」
 何度、彼女に風穴を開けられたか知れない。開けられた穴はいつだって突風のように、築き上げた自分の概念を荒らしていった。
「その理由を聞かせてください」
「……僕、自分がいかに愚かで、世間知らずなクソガキかと思い知らされるので」
 彼女の前でだけはまだ、慣れない。「僕」に「自分」、「私」と決めかねている。本家本元を前にして、平気でいられるほど、自分のものにはできていない。
 柔らかい呼称も、相手を敬う口ぶりもそう。考え、身構え、ようやく口から吐き出せる。いくら真似てはみても、彼女のようにはなれないと結論に辿り着いているにも関わらず、自分は今もまだ、愚かなことを続けている。
「夏油くんのそういう、素直なところが大好きですよ」
「……すみません、しくじりましたね」
 痕跡を消すように口をつけたところを指で拭い、彼女は微笑みながら首を横に振った。
「五条くんのように天真爛漫に、とは言いませんが、無理をすることもないような気がします。あなたが無理をしたいなら、話は別ですが」
「あなたに、そう言っていただけて嬉しいです」
 いつもなら気楽に伸ばす両足をしっかりと折り曲げ、ポケットに入れてしまう両手だって、曲がった膝に置いている。彼女といるときの自分は、歪に「別人」を装おうとするから、影で悟や硝子に笑われているのも知っている。――彼女は何も、言ってはくれない。そのはずだった。これまでは間違いなく、そうだったのだ。
「卒業、おめでとうございます」
 彼女と共にいられた時間は、そう多くはなかった。それでも鮮烈に刻まれている。彼女の術式ではなく、彼女自身に溶かされたのだと今更になって気がつかされた。
「まだ先ですよ。寂しいことを言わないでください」
「今、言っておかないと後悔しそうな気がしたので」
 自分の手元にあるマグカップは、ほとんど量が変わらずにいる。何も入れていない、安物のコーヒーは舌が抉れるような苦味で味を誤魔化されたそれを、進んで飲み込む気にはなれなかった。
 文句を言う方が間違っている。自分たちは格式高い喫茶店にいるわけでも、高級なレストランにいるわけでもない。ここはどこにでもある、量産型のファミレスにすぎないのだから。
 だが、たとえ間違いであったとしても、口を塞ぐ理由にはなれない。たとえ正しく塞ぎ、閉じ込めていたとして、いずれどこかで破綻するのは目に見えていた。
「もう一つ、いいですか」
 冷めた安物のコーヒーはもはや、飲めたものではなくなっていた。
「どうぞ」
 彼女もまた、濁して誤魔化したミルクティーを口にしようとはしなかった。
「卒業したら、先輩は何をしますか」
「好きなように生きます。あなたと同じように」
「私があなたにこのようなことを言うのもおこがましいことですが、好きなように生きて、できるだけ長く、末永く長生きしてください」
 彼女は困ったように眉尻を下げ、「ありがとう」と自分に呪いをかけた。最初で最後に他ならない。年相応の異性らしい、軽やかな響きに背筋が痺れてしまう。
「私の敬愛はあなただけのものですよ、先輩」
 やはり彼女の呪いは骨をも溶かす、甘い香りがした。


210628
Jujutsu Kaisen
Wordpallet,@Wisteria_Saki


  "白い冬" 



2.アルプヤルナ 
「飲み込む」「突風」「甘い」

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  Jaro pupen



久々知 兵助
 立花先輩と炮烙火矢の話で盛り上がれる奴は少ない。火薬の調合にしろ、使い方にしろ、自他共に危険がつきまとう。威力は折紙つきだとしても、忍んでなんぼの俺たちの世界――他にも使い勝手の良い、実に見合った戦いの道具はいくらでもある。
「兵ちゃん、兵ちゃん。そんなに見つめられたら手元が狂っちゃうよ」
 鼻と口を布で覆い、鬱陶しそうにぼやく。
「火薬委員として監視してるだけで他意はないからな」
「監視っていうか凝視だよ、兵ちゃんのバヤイ」
 やれやれと頭を振っても、彼女の両手は惚れ惚れするほど的確に動き続けている。
「もしわたしがしくじったら、五体がばらばらにお別れしちゃうからね」
 秤で調べた少量の粉末を、鉄製の豆皿や懐紙に分けていく。光源は閉じかけた火薬庫の扉から入る光だけ。色はどれも似たり寄ったりの黒色ばかり。鉄臭い香りもほとんど変わらない。だが、火薬の中でも発火しやすいものを正確に見極め、豆皿へ載せているところは、さすがとしか言いようがないのだ。
「そんな凡ミス、お前はしないよ」
 注意の一つでもしようかと思ったものの、今のところ、その機会は訪れる気配すらなかった。
「ところでさっきから何を作ろうとしてるんだ?」
「当ててみてよ」
「……前に、立花先輩と盛り上がっていた最小の仕込み炮烙火矢か? 着物に忍び込ませて擦れたところで爆発させるとか、何とか」
「……よく覚えてんね。それ話したの結構前よ? あ、そっちの紙、こっちに並べてって」
「できたら便利そうだと思って頭に残ってた」
 少し遠くへ退けられた紙を手に取り、一枚ずつ並べていく。やけに細長く切り分けられた紙だ。彼女は一体、何を作ろうとしているのだろう。
「兵ちゃんらしいね、そういうとこ」
 すり鉢で計り終わった火薬を、彼女は手早く混ぜ合わせる。
「でも、はずれ。便利なものじゃないよ」
 発火しやすいものだけを除き、すべてを調合した混合火薬を、彼女はまた、秤を用いて小分けにする。
「さっぱりわからん」
「じゃあ、できてからのお楽しみだね」
 それぞれの紙に同じ量の粉を分けていくのかと思えば、微妙に量を変えている。縦長の紙に線でも描くように、粉はか細くのせられていった。
「この量だと燃えるだけ、いや、少し火花が出るな。……でも燃えるだけになるぞ」
「それでいいの」
「火薬は端の方だけでいいのか?」
「全部に置いたら指まで燃えるよ」
「……持ち手のある、武器?」
 ここまでくるともう、俺の頭では何も思い当たらなくなっていた。今、彼女が扱っている火薬の中で最も危険な、発火しやすい火薬は描かれた線の中間部分、それもごく僅かな量で配分されていく。
「……兵ちゃん、もういいから。これ火薬側から折って、巻くように包んでいって」
 俺に見えるよう、彼女はゆっくりと細長い紙を折り畳み、包んでいく。細く、まっすぐな様は、どこか線香を彷彿とさせる形をしていた。
 なるほど。完成間近のようだが、何を作らされているのか、とんとわからない。
 しかも見ているだけのつもりだったのに、結局手伝わされてしまった。
「兵ちゃん、ぶきっちょ」
「初めてやるんだ。勝手がわからない」
 心なしか声が低くなる。不器用なんて言われるのは、三郎たちに茶化されたときぐらいだ。反射に近いが、良い気分はしない。
「あ、怒った? やだな、戯言だよ」
 彼女と同じように目と口を布で覆っている。俯いているせいで、目は前髪で隠れてしまっているはずだ。なのに、彼女は常と等しく、俺を察知する。
 俺はわかりにくいがわかりやすい、らしい。長いこと同組で過ごしている勘右衛門は、思い出したように言っては、笑うのだ。「兵助の全部をわかってるのは、彼女ぐらいだけどね」必ずと言っていいほど、最後にそう締めくくられる。たとえ茶化すような、見透かされたような物言いだったとしても、すんなりと受け入れられるのは俺自身、自覚があるからなのだろう。
「お前の方が俺より器用ってだけだ」
「手先はまあ、そうかもね」
 糸のように細く、捻り巻くように紙を包んでいく。数回、繰り返していくと最初に作ったものより、細くまとまるようになってきた。――彼女の作ったものに比べて太さは糸と紐、加えて形はいびつではあったけれど。
「心とか、生き方とか、そういう方で器用になりたかったな」
「不器用には見えないが」
「兵ちゃんの方がわたしよりもよっぽど器用だよ、そういうとこは」
 先まで捻りきった俺のものと、途中で捻るのをやめた彼女のものを見下ろす。「先まで折らない方がいいのか?」と聞けば、「好みの問題」と返され、支障がないならと残りの紙も先まで捻りきってしまった。
「で、これは?」
 作り終えた今となっては、導火線のようにも見えてくる。
 明かり取りの窓すらない火薬庫では、時の流れを知るすべがない。唯一あるとするなら、遠くでへむへむの鳴らす鐘の音ぐらいだ。
「答え合わせは夜になってからかな」
「今じゃないのか?」
「本当はね、今よりも夜が濃くなる夏の方が似合う気がするんだよね。だから、せめてもうしばらく、暗くなってから。その方が綺麗に見えると思う」
「意外と考えてるんだな」
「ふふっ。あと、これを試すなら兵ちゃんと二人がいい」
「……やっぱり武器じゃない、よな」
「武器でも、便利なものでもないよ」
 片付けを始めながら、彼女は言う。
「くのたまには必要ない、この知と一緒」
 蓋をした火薬坪を抱え、立ち上がった。
 俺が指示をしなくても、彼女はどこに何が置かれているかも把握している。淡々と元の場所へ火薬坪を棚に入れていく。
「別に、それでもいいんじゃないのか」
「……兵ちゃんらしく、ないね」
「お前に感化されたんだと思う」
 素直に告げたら、遠くからの笑い声が耳へ届く。
「お前と一緒にいるから、こうなったんだ」
 はっきりと告げる。しばらく経っても何も返そうとしない彼女へ畳みかけるように。一際遠くの棚へ向かったまま戻ろうとしない彼女へ届くように。
「兵ちゃん」
 小さな声で名を呼ばれる。
 運びやすくするために、豆皿を重ね合わせていた手を止めた。何よりも、手を止めるよりも早く、床から腰を浮かせていたことに驚いて、制止した。勝手に動いていた身体に驚きを隠せなかったのだ。
「それ、まだ名前も考えてないけど、もしうまくできてたら」
 戻ってきた彼女は、固まった俺を見下ろして言う。 
「覚えていてね」
 今にも泣きそうな声をしていた奴とは思えないのに、細められた瞳は涙を隠しきれずにいる。
 腰を下ろし、迎え入れるように軽く腕を広げた。待つまでもなく、彼女は胸へ崩れ落ちてくる。
「お前やっぱり、くのたま向いてないよ」
 まるでしがみつかれているようだ。背中を撫でると、抱きついてくる彼女の腕に力が込められた。
「……知ってる」
 向いていないと知ってなお、彼女がしぶとく忍術学園に留まる理由がある。それは俺と彼女だけが知っていればいいことだ。――最後まで、そうであればいいと夜を待つ。


210701
RKRN
Wordpallet,@Wisteria_Saki


  "春の芽" 



3.ヤロ・プペン 
「声」「香り」「別れ」

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  Acordar



浦原 喜助
 僕には右足の小指から爪を切る癖がある。それを言い当てたのは彼女だった。「六番隊の誰それが」と名前も顔もピンと来ないような誰かさんの話をするように言われたものだから、僕は僕のことなのに飲み込むまでに少しの時間を要した。――後ろにもう一人誰かいるんですか。彼女は呆れた様を隠しもせずに呟いた。
 あの頃は寝ている時間より、起きている時間の方が確実に長かった。平穏と戦いの繰り返し。その最中、見つけてしまった一つの可能性。何もかもを犠牲にして、そうまでして何がしたかったのかと問われると、今も昔も僕は答えに詰まってしまうのだろう。
 新しい隊長に、新しい仕組み。前任からの変貌ぶりにも彼女は「仕事なので」という、たった六文字でたたき伏せ、隊員の誰よりも早く順応していった。当事者の僕よりも早かった気さえする。
 かといって、彼女が淡泊な人だったわけではない。顔の下にある筋肉を総動員して周りと話していたり、すまし顔で真面目に筆を動かしているかと思ったら、書き込みすぎて模様にしか見えないようなあみだくじを真剣に描いているだけだったり――人より多少、肝は据わっている方ではあったが、どこにでもいる普通の女性だった。聡いわけでも、情が薄いわけでも、世渡り上手だったわけでもないのだ。
 すべて、とは言わない。せめてどれか一つでも彼女に備わっていたら、きっと彼女はこんなところまで僕に付き合うことはなかった。
 悲鳴は絶え間なく、響き続けている。揺れが酷くなるにつれ、焦げ臭さは増していった。すでに耳も鼻もまともとは言い難い。
 そういえば一昨日、店を閉める間際に訪れた子は今頃何をしているのだろう。砂糖が配給制になってから、まともな菓子を店に並べられなくなっていた。空っぽな棚が寂しく思えて、手慰みに見よう見まねで作った空を飛ぶ乗り物を飾っていた。売り物ですらないそれを眺めに足繁く、あの子は通ってくれていた。回収令が解かれたら、ブリキ作りの物を用意してあげましょうね。僕の気休めを信じ、あの子は大きな瞳を目一杯輝かせていた。
 手元が狂わないよう、ゆっくりと足の爪を切っていく。床は揺れている。いつもより明るく、手元は見やすかった。もはや照明を隠す必要もないほど、辺りは明るかった。
「喜助さん、一応、地下に隠れていた方が良くないですか」
「鉄斎サンは?」
「すでに地下へ。夜一さんもうるさくて眠れないからと、地下にいますよ」
「あの人はどんなときでも相変わらず、ですねえ」
 彼女は店の出入り口へ向かい、「向こうは大変でしょうね」と開かれていた戸を締め、鍵をかけた。
「明日から増えそうですね。鉄斎さんも心配してました。……結界はこのままで良かったんですか」
「ええ。向こうは向こうで、それどころではないでしょうから」
 木と紙で仕上げた手作りの飛行機を手に、彼女は土間から上がらずに床へ腰かける。僕も彼女も場違いな寝間着姿でいるが、何も羽織っていない彼女の背中はどこか頼りなく映る。
「ダメですよ。今の僕らはしがない一般市民なんですから」
「勝手に人の心を覗かないでください。……もう私の仕事じゃないんですから、しませんよ」
 パチン、と左足の親指の爪を切る。思ったより深く、切りすぎてしまったようだ。
「でもあなた、好きだったでしょう。自分の仕事」
 ひりつく親指を撫でる。人差し指の爪は、心なしか控えめに切り落としていた。
「一目惚れみたいなものです。最初に、曳舟隊長から任された仕事が性に合ってただけですよ」
「アラ、焼けちゃいますね」
「大体、本当に好きだったら、さぼったりなんかしませんよ」
「それも込みです。仕事がなかったら、さぼることさえできはしない」
「物は言い様ですね」
 お互いに下を向いて話しているせいか、声の通りが悪い。壁一枚を隔て、内と外ではまるで世界が異なっているようだ。僕たちは二人して動かずに座り込んで話しているのに、外の人たちは足音まで喚かせ、慌ただしく駆け回っている。
「仕事より、優先したいことができた。それで、いいじゃないですか」
 ふと顔を上げる。彼女は子どものように飛行機を宙へ泳がせていた。「それ、どうしましょうか」と問う。「私にください。あの子にあげたいので」と大空を舞うかのように、悠々と飛行機を旋回させた。
「いいっスね。それが一番、いい」
 彼女の素晴らしい提案に賛同する。どんな形でも僕たちはあの子に、これを渡してあげられる。飛行機にしたって、棚を埋めるために留まっているよりもずっと、報われることだろう。
「私もこれが一番よかったんですよ」
 僕へと振り返り、彼女は口元を緩ませながら言った。
「喜助さんは違うんですか」
 見るからに「悲しそう」な表情を作る彼女に、やんわりと頭を横に振る。繕っているとわかっていても、受け入れることを良しとしてしまう。
 仕方がない。彼女に対しての、どうしようもない弱みが僕にはある。
「あなたも相変わらず、大概、恐ろしいひとですよ」
 情に厚くて聡くはあれず、世を渡る順応性を備えているにも関わらず、平気で道を踏み外す。踏み外してなおも、彼女は僕の傍にいる。
「……爪、切ったら僕も行きますから、先に地下へ行っててくださいな」
 立ち上がった彼女は、壊れ物を扱うように飛行機を両手で持っていた。「ここに」と漏らし、唇を閉じる。
「ここにいさせてください。地下には一緒に行きましょう、喜助さん」
 僕の前に腰を屈めた彼女に苦笑する。
「あなた、本当に僕の言うこと聞かないんですから」


210707
Bleach
Wordpallet,@Wisteria_Saki


  "合意、あるいは悔恨" 



4.アコルダール 
「足音」「耳」「一目惚れ」

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